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平安朝の性

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延喜の頃、ある貴族の青年が夜更けに牛車を仕立てて、邸の檜垣の隙間から漏れる琴の音をたよりに、まだ顔も知らぬ女のもとへ通った。翌朝、後朝(きぬぎぬ)の使いが届ける和歌一首が、その関係の真の始まりであり、また終わりの予兆でもあった。平安朝の貴族にとって、性は几帳の向こうに隠された秘事であると同時に、和歌・薫物・装束・筆跡を媒介として徹底的に文芸化された営みであった。本項は、794 年から 1185 年に至る平安時代の貴族・庶民・僧侶層における性をめぐる多層的な現象を、王朝文学・歴史史料・近代以降の研究動向の三つの視点から概観する。

平安朝の性(へいあんちょうのせい)とは、桓武天皇の平安京遷都(794 年)から鎌倉幕府成立(1185 年)に至る、いわゆる平安時代における日本の性に関する慣行・表現・制度・規範の総体を指す。律令制の弛緩と摂関政治の成熟に伴い、貴族層を中心とする独自の婚姻形態と性的作法が発達し、それは『源氏物語』をはじめとする王朝物語、勅撰和歌集、女流日記文学のなかに精緻に記録された。本項では、貴族層における通い婚(妻問婚)と多妻制、後宮制度の構造、和歌を媒介とする恋愛作法、女流文学に描かれた性愛、僧侶層の戒律と稚児文化、庶民層の性慣行、そして近代以降の研究史を順に扱う。

概要

平安朝の性文化を理解するうえで重要なのは、その身分階層性文芸との不可分性である。すなわち、現存史料の大半が貴族層のものであることに起因して、平安朝の性は王朝文学を通じて美的に形象化された貴族の性として表象されてきた。しかし実際には、律令官人・地下の中下級貴族・寺社関係者・農工商の庶民・賤民層など、身分と地域により性の作法と規範は大きく異なっていた。

角田文衞は『王朝の性愛』(1976)において、平安期の性は近代以降の一夫一妻的恋愛観念で測ることが困難な対象であり、複数の女性のもとへ通う夫の性的活動と、複数の男性を受け入れる可能性を制度的に否定しない妻の地位とが並存する独自の体系を成していたと論じた。村井康彦『王朝の貴族』(1965)は、貴族層の性的関係が政治的・経済的同盟と分かちがたく結びつき、恋情・性欲・婚姻・家政が単一の場で展開する構造を指摘する。服藤早苗の一連の研究は、平安朝のジェンダー秩序が後の中世武家的家父長制とは異質の論理によって構成されていたことを実証的に示している要出典

婚姻制度と通い婚

妻問婚から婿取婚へ

平安期貴族層の婚姻形態は、夫が妻の家に通う「妻問婚(つまどいこん)」を基本とし、平安後期以降、夫が妻方の家に住み込む「婿取婚(むこどりこん)」へと漸進的に移行した。William H. McCullough は “Marriage in Heian Japan”(1967)において、平安期の婚姻を「duolocal residence(別居婚)」と「uxorilocal residence(妻方居住婚)」の混在として記述し、夫婦同居を当然視する近代的婚姻観との差異を明確化した。

通い婚の段階では、男女は基本的に別居しており、男が夜半に女のもとを訪れ、暁の鐘とともに帰宅するのが基本形であった。三日連続して通えば「露顕(ところあらわし)」として正式な夫婦と認められ、女方の親族が祝宴を催す慣行があった。通いが途絶えれば関係は事実上消滅し、女方からの破棄通告という制度は存在しない。離別の主導権は基本的に男の側にあった。

多妻制の構造

貴族男性は複数の女性と婚姻関係を持つことが認められており、それぞれの女性は別の邸に居住していた。正妻(本妻、北の方)とそれ以外の妻妾の区別は明確に存在したが、後者は単純な「妾」ではなく、それぞれが社会的承認を伴う妻としての地位を有していた。正妻の地位は当事者の出自・財産・政治的後ろ盾により決定され、必ずしも最初に婚姻した女性が正妻となるわけではなかった。

服藤早苗『平安朝 女の生き方』(2004)は、平安期の多妻制を中世以降の武家的「妾」制度から区別し、複数の妻が並列的に存在する制度として理解すべきと指摘する。複数の妻のうち誰が「北の方」となるかをめぐる緊張は、王朝物語の重要な主題となった。

婚姻と財産

平安期の女性は財産権を保持し、所領・邸宅を継承・処分する権利を有していた。婚姻によっても女性の財産は夫に移譲されず、寡婦となれば夫の遺産を一部相続することも可能であった。妻方の邸宅で婚姻生活を営む慣行は、女性が経済的基盤を保持していたことの帰結でもある。これは中世以降の家父長的家制度のもとで女性が次第に財産権を失っていく過程と対比され、平安期女性の相対的に高い社会的地位を示す根拠とされる要出典

後宮制度

后妃の階層

天皇の配偶者集団である後宮は、皇后・中宮・女御・更衣という四階層を基本構造とした。皇后と中宮は本来同一の地位を指したが、一条天皇の御代に藤原道隆の女・定子と藤原道長の女・彰子が同時に立后され、皇后と中宮が並立する「一帝二后」が成立した(1000 年)。これは摂関家の権力闘争が後宮制度そのものを変容させた象徴的事例である。

女御は四位・五位の家から、更衣は六位以下の家から入内するのが原則で、各人には数十人から百人を超える女房が付された。後宮は単なる天皇の私的領域ではなく、当代の文化・政治の中心的舞台であり、皇子の出生をめぐる外戚競争の場であった。

摂関政治と入内戦略

藤原北家による摂関政治は、女(むすめ)を入内させて生まれた外孫を皇位に就け、その外祖父として権力を掌握する戦略を基軸とした。藤原道長の三条天皇への威子入内、後一条天皇への嬉子入内など、自家の女を組織的に複数の天皇に配する戦略は、後宮を政治装置として機能させる頂点を示す。山本淳子『源氏物語の時代』(2007)は、この入内戦略のなかで定子と彰子のサロンが文芸の場として機能し、清少納言と紫式部という対照的な才女を生んだ過程を詳細に追跡している。

女房と後宮文化

后妃に仕える女房集団は、後宮文化の実質的な担い手であった。女房たちは中下級貴族の女として教養を身につけ、和歌・漢学・音楽・書を能くした者が選抜されて後宮に出仕した。彼女らはしばしば天皇・公卿・若公達との性的関係を持ち、これは「公的」な後宮制度の周縁で展開する半ば公認された実践であった。和泉式部の奔放な恋愛遍歴、藤原道長と紫式部の関係に関する諸説など、女房層の性的活動は王朝期の性文化の重要な側面を成した。

王朝文学と性愛表現

『源氏物語』の構造

紫式部『源氏物語』(11 世紀初頭)は、光源氏とその子孫を主人公とする 54 帖の長編物語であり、王朝期貴族の性愛と婚姻の実相を文学的に最も精緻に形象化した作品である。光源氏が桐壺更衣・藤壺・葵の上・紫の上・明石の君・女三の宮など多数の女性と関係を結ぶ物語は、平安期の多妻制と通い婚を背景にしてはじめて成立する叙述構造を持つ。

源氏と藤壺の不義(継母との密通)、柏木と女三の宮の不義、夕顔の急逝などのエピソードは、いずれも当時の貴族社会において現実に発生し得た性的事件の文学的再構成である。Royall Tyler 訳『The Tale of Genji』(2001)の解説は、源氏物語の性愛描写が単なる「みやび」の美学に還元されるものではなく、家系・財産・政治的影響力をめぐる権力闘争の媒介としての性を描き出していると評価する。

女流日記文学

『蜻蛉日記』(藤原道綱母、974 年頃)、『和泉式部日記』(11 世紀初頭)、『更級日記』(菅原孝標女、11 世紀後半)などの女流日記文学は、女性の側から見た王朝期の性愛を一人称で記録する稀有な史料である。とくに『蜻蛉日記』は、夫・藤原兼家の他の妻方への通いに苦しむ正妻の心情を率直に綴り、多妻制下における女性の感情的経験を直接的に証言している。

『和泉式部日記』は、和泉式部と敦道親王の恋愛を、二人の間に交わされた贈答歌を中核として再構成する。これは平安期の性愛が和歌という言語形式に強く媒介されていたことを示す典型例である。

『枕草子』と性的表象

清少納言『枕草子』(1000 年頃)は、中宮定子に仕えた女房の視点から後宮の日常を活写した随筆で、性的場面の直接的描写は『源氏物語』ほど多くない。しかし「胸つぶるるもの」「すさまじきもの」などの章段に、男女の関係をめぐる女房層の率直な観察が散見される。後朝の文の遅速、男の身仕舞いの様、几帳越しの会話の機微など、性愛の周辺的儀礼への鋭い眼差しが特徴である。山本淳子は清少納言の性愛観を、定子サロンの「をかし」の美学のなかに位置づけて分析している。

和歌と恋愛作法

贈答歌と関係の進展

平安期の恋愛は、和歌の贈答を通じて開始・進展・終結する儀礼的構造を持っていた。男は人伝てに女の存在を知り、まず一首の和歌を送る。女が返歌を返せば関係の端緒が開かれ、返歌がなければ関係は始まらない。逢瀬の翌朝、男は「後朝の文(きぬぎぬのふみ)」を送ることが必須とされ、これを怠れば関係は破綻したものとみなされた。

『古今和歌集』(905 年)以降の勅撰和歌集には、恋部が独立して立項され、相聞・初恋・忍恋・絶恋などの主題的分類が成立した。和歌の修辞技法(掛詞・縁語・序詞)は、性的事象を直接表記せず暗喩を介して表現するための装置として高度に発達した。「逢ふ」「夜」「衣」「枕」「夢」などの語彙は、それ自体が性的逢瀬を婉曲に指示する慣用的記号となった。

筆跡・薫物・装束

恋愛のなかで重視されたのは和歌の文芸的水準のみならず、それを書く料紙の選択、墨の濃淡、筆跡の優美さ、添えられる花枝、薫物(練香)の調合、結び文の形状など、書簡を構成するすべての物質的要素であった。『源氏物語』には、紫の上・明石の君・末摘花など各女性の筆跡を比較する描写が繰り返し現れ、書のレベルが直ちに女性の教養と美的感性の評価へと結びつく構造が示される。

装束については、襲(かさね)の色目の選択、几帳の色合い、御簾越しに見える袖口の出衣(いだしぎぬ)が、間接的な性的アピールの装置として機能した。これらの細部への注意は、平安朝の性文化が極度に視覚的・嗅覚的・触覚的な美学に統合されていたことを示す。

僧侶の戒律と稚児文化

僧侶の不淫戒

平安仏教の僧侶は、『四分律』『梵網経』に基づく不淫戒の遵守を建前としていたが、現実には妻帯・愛人を持つ僧侶は珍しくなかった。とくに密教の隆盛に伴い、僧侶の俗的活動と聖的修法とが緊張関係を帯びるなか、大寺院は「俗別当」「妻帯僧」などの実態を抱え込んでいた。これは鎌倉以降の親鸞による妻帯公然化を待たずとも、平安期の段階で実質的に進行していた現象である。

稚児文化の前史

中世以降に体系化される稚児文化(成人僧侶と少年の同性愛的関係)は、その萌芽を平安後期の大寺院に持つ。延暦寺・園城寺・東大寺・興福寺などの大寺院では、僧侶に仕える少年(稚児)が儀礼・楽舞の担い手として独自の文化を形成し、それが性的関係と接続する素地を成した。Gregory Pflugfelder は『Cartographies of Desire』(1999)で、日本の男色言説の系譜を中世僧院文化に遡らせ、それが後の戦国期武家社会の若衆道、近世の衆道へと連続する流れを描出している。

平安期段階での稚児文化の実態は、史料の残存が限定的で詳細は明らかでない部分も多いが、『今昔物語集』『古今著聞集』などの説話集に散見される僧侶と少年の関係をめぐる挿話が、当時の認識の一端を伝える。

庶民層の性慣行

史料の制約

平安期の庶民層の性慣行については、現存史料の偏りにより詳細な再構成が困難である。『日本霊異記』『今昔物語集』などの説話集、『延喜式』をはじめとする法制史料、各地の古記録に断片的な情報が散見される程度で、貴族層の文学が記録する性愛の精密さとは対照的である。

歌垣と前史

奈良期以前から続く歌垣(うたがき)の慣行は、平安期にも東国・九州などの地域で継続していた可能性が指摘される。男女が山中・市場などに集まり、即興の歌のやりとりを通じて性的関係を結ぶこの慣行は、後の中世以降の村落における性的慣行の前史をなす。ただし平安京の都市文化のなかでは、こうした集団的儀礼は次第に縁辺化され、貴族層の個別的な恋愛作法へと変容した。

受領と地方

貴族のうち地方に下向した受領(ずりょう)層は、任地の地方豪族の女と関係を結ぶことが多く、これは中央貴族の性的活動が地方社会と接続する重要な経路であった。『更級日記』作者・菅原孝標女の父・菅原孝標が常陸介として下向したように、受領層の家族は地方と中央を往復し、その過程で地方女性と中央貴族の混血的婚姻関係が継続的に形成された。

法制度と性

律令と姦淫罪

奈良期に整備された律令は、姦淫(夫ある女との性的関係)を犯罪として処罰する規定を持っていた。「養老律」の和姦条は、夫ある女との合意による性的関係を「徒一年」、強姦を「徒二年」と定めていた。しかし平安期には律令の運用が形骸化し、姦淫罪が貴族層に厳格に適用されることは稀であった。

物忌と穢れ

平安期の貴族社会では、性的関係は「穢れ」の観念と密接に結びついていた。月経(月の障り)、出産、死体接触などとともに、性交は「穢」と見なされ、宮中・神事への参加にあたっては一定期間の物忌(ものいみ)が課された。陰陽道の浸透は、性をめぐる吉凶判断を日常生活に細かく組み込み、暦の凶日には性交を避けるなどの規範が貴族社会に広く共有されていた要出典

文化史的意義と現代研究

中世への遷移

平安末期から鎌倉期にかけて、貴族の通い婚・婿取婚は次第に夫方居住の婚姻形態へと移行し、武家社会の成立とともに家父長的家制度が浸透していく。これに伴い、女性の財産権は縮小し、多妻制は「妾」制度へと再編成され、王朝期の多層的性文化は中世的な性規範に置換されていった。網野善彦・服藤早苗らの研究は、この遷移過程が単線的ではなく、地域・階層により異なる速度で進行したことを指摘する。

近代以降の研究

平安期の性に関する研究は、明治・大正期の国文学研究のなかで『源氏物語』の道徳的評価をめぐる論争として開始された。本居宣長以来の「もののあはれ」を中心に据える評価と、儒教倫理・キリスト教倫理から源氏の不倫を非難する評価との間で、平安期の性のとらえ方は揺れ続けた。

戦後の角田文衞・村井康彦・服藤早苗らによる実証的研究、Ivan Morris『The World of the Shining Prince』(1964)に代表される英語圏研究、近年のジェンダー史・女性史研究の進展により、平安期の性文化は単なる「みやびな恋」の世界としてではなく、政治・経済・宗教と分かちがたく結びついた歴史的構築物として再評価されつつある。同時に、女房層・庶民層・地方社会など、王朝物語の中心から外れる集団の性的経験を史料的に復元する試みが継続されている。

国際比較

平安期の性文化は、同時代の唐・宋中国、新羅・高麗朝鮮、ヨーロッパ中世の宮廷文化と比較して、いくつかの特異性を示す。第一に、女性自身による一人称の文学的記述が大量に残存している点。第二に、和歌という短詩形式が恋愛の媒介として制度化されていた点。第三に、貴族層の婚姻が夫方居住ではなく妻方居住を基本とした点。これらは平安期日本の性文化を世界史的に独自の事例として位置づける根拠となる。

関連項目

参考文献

  1. 角田文衞 『王朝の性愛』 中央公論社 (1976)
  2. 服藤早苗 『平安時代の女性と政治文化 宮廷・ジェンダー・後宮』 吉川弘文館 (2017)
  3. 村井康彦 『王朝の貴族』 中央公論社 (1965)
  4. 山本淳子 『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』 朝日新聞出版 (2007)
  5. 服藤早苗 『平安朝 女の生き方』 小学館 (2004)
  6. 紫式部 『源氏物語』 (11世紀初頭)
  7. 清少納言 『枕草子』 (1000年頃)
  8. 藤原道綱母 『蜻蛉日記』 (974年頃)
  9. Murasaki Shikibu (trans. Royall Tyler) 『The Tale of Genji』 Penguin Classics (2001)
  10. Morris, Ivan 『The World of the Shining Prince: Court Life in Ancient Japan』 Kodansha International (1964)
  11. McCullough, William H. 『Marriage in Heian Japan』 Harvard Journal of Asiatic Studies (1967)
  12. Pflugfelder, Gregory M. 『Cartographies of Desire: Male-Male Sexuality in Japanese Discourse 1600-1950』 University of California Press (1999)

別名

  • 平安期性文化
  • 平安時代の性文化
  • Heian sexuality
  • Sexuality in Heian Japan
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