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遊女

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分類人物 用例遊女が客を見送る場面が描かれた」 遊女の格付けを史料で読み解く」 用法名詞 最終更新 ▸ 累計 PV

夜更けの妓楼の格子越しに紅を引いた口元が並ぶ、近世日本の都市夜景の中核を成した類型である。客は格子の前で品定めをし、選ばれた女は禿(かむろ)に手を引かれて二階座敷へ上がる。雪駄の音、三味線の爪弾き、煙管の灰落とし、廓特有の音響の中で交わされる契りは、単なる売買春ではなく、近世日本が制度として組み上げた「色を売る場」の総体であった。

遊女(ゆうじょ、英: courtesan, prostitute)とは、近世以前の日本において公認の遊廓または私的な宿駅・茶屋・船着場で、性的奉仕を業とした女性の総称である。古代の「遊行女婦(うかれめ)」を起源とし、中世の傾城・白拍子を経て、近世の吉原・島原・新町を頂点とする身分序列体系へと展開した。本項では古代から近世への系譜、廓内部の格付け、太夫・花魁・芸妓・娼妓との概念上の区別、明治以降の制度的変容を扱う。

概要

遊女は、近世日本の身分制社会において固有の地位を占めた職業類型である。江戸期の幕府公認遊廓制度においては、遊女屋(妓楼)に身を置き、客と床を共にすることを業とする女性を指した。狭義には公認遊廓の遊女を指し、広義には宿場の飯盛女(めしもりおんな)、岡場所の私娼、夜鷹・船饅頭などの街娼までを含む。

近世日本における遊女の社会的位置は、現代の感覚から想像される以上に複雑である。最高位の太夫花魁は教養・芸事を備えた都市文化の華形であり、武家・大名・豪商が高額の揚代を支払って交わる対象であった。一方で、廓内部の下層遊女、岡場所・宿場の私娼の多くは、貧困・人身売買・年季奉公の構造に組み込まれ、過酷な労働環境に置かれていた。本項では文化史的意義と人権上の問題の双方を併記する。

語源と異称

「遊女」の「遊」は、古代において神社の神事における芸能奉仕(歌舞・神遊び)を意味した語に由来する。古代の遊行女婦(うかれめ・あそびめ)は、神事芸能の担い手としての側面と、旅人への性的奉仕の側面を併せ持っていた。語源的には、宗教的・芸能的な「遊び」が、後に世俗的・性的な「遊び」へと意味を移した経緯が指摘される。

近世における異称・関連語は多岐にわたる。「傾城(けいせい)」は中国故事「傾国傾城の美女」に由来し、男を惑わす美女を指す雅語として遊女の同義語となった。「娼妓(しょうぎ)」は明治期の法令用語であり、公娼制度下で営業届を出した遊女を指した。「女郎(じょろう)」は江戸期の俗称で、本来は若い女性一般を意味したが、廓内部の遊女を指す語に転じた。「白拍子(しらびょうし)」は平安末期から鎌倉期にかけての歌舞を伴う遊女、「傀儡子(くぐつ)」は中世の漂泊芸能民で女性が遊女を兼ねたことを指す。

歴史

古代の遊行女婦

『万葉集』巻六には、神亀年間(724-729)の遊行女婦の作とされる和歌が残る。土師尊(はじのみこと)の宴席に侍した遊行女婦・児島の歌(「やまとぢは雲がくりたり…」)は、当時の遊行女婦が宴席で和歌を交わす教養を備えていたことを示す。古代の遊行女婦は、神事芸能・宴席接待・性的奉仕の三者を分かち難く備えた存在であった。

平安期に入り、宮廷文化の発達と並行して、白拍子・傀儡子と呼ばれる芸能集団が成立した。白拍子は男装で歌舞を行う女性芸能者で、源義経の愛人・静御前、後白河法皇に仕えた祇王・仏御前らがその代表例である。彼女らは芸能と性的奉仕を兼ねたが、貴族・武家との関係においては愛人・側室に近い位置づけを得ることもあった。

中世から近世初期

鎌倉から室町期にかけて、傀儡子・白拍子の系譜は次第に都市・宿駅における遊女集団へと展開した。京都の朱雀・五条、鎌倉の大町・小町、博多の津屋崎などに遊女町が形成され、宿駅の飯盛女・船饅頭等の街娼形態も並行して発達した。

戦国期から織豊政権期にかけて、為政者による遊郭の集約化が進行した。豊臣秀吉は 1589 年(天正 17)に京都・柳町(後の島原)に遊郭の集約を命じ、京の遊女を一区画に集めた。これが近世日本の公認遊廓制度の直接的前身となる。

江戸期の公認遊廓

江戸幕府は 1617 年(元和 3)、庄司甚右衛門の願いを容れて江戸・葺屋町に遊廓(吉原)の設置を公認した。1657 年(明暦 3)の明暦の大火後、浅草寺裏(現・台東区千束)へ移転して「新吉原」となった。京都・島原、大阪・新町と並び「三大遊廓」と称され、近世日本の遊女文化の中核を成した。

公認遊廓内部では厳格な身分序列が確立した。最上位の太夫は教養・芸事・容姿いずれも卓越し、「呼出」と呼ばれる予約制で揚屋に出向いて客と対面した。太夫の下に「天神」「鹿恋(かこい)」「散茶」「梅茶」等の格付けが続き、最下層の「端女郎(はしじょろう)」「切見世(きりみせ)」「鉄砲女郎」までを含む多層構造であった。吉原では太夫の格は元禄期(1688-1704)を頂点として 18 世紀半ばに事実上消滅し、代わって「花魁」の語が最高位を指す呼称として定着した。

公認遊廓の外部には、「岡場所(おかばしょ)」と呼ばれる非公認の私娼地区が江戸市中に多数存在した。深川・品川・新宿・板橋・千住等の宿場町には飯盛女が置かれ、寛保年間(1741-44)以降に幕府の取締まりを受けつつも、近世を通じて並存した。

廓の経済構造と人身売買

近世遊廓の遊女供給は、農村・漁村からの「身売り」によって維持された。貧困家庭の女子が「年季奉公」の名目で遊女屋に売られ、契約期間(通常 10 年前後)中の労働で奉公金を返済する構造であった。実際には化粧代・衣装代・布団代等が遊女の負債として加算され、年季明け前に病死・自害する者が多かった。

吉原の浄閑寺・三ノ輪の投込み寺には、客に身請けされず、年季も明けずに死亡した遊女の遺体が「投げ込み」で葬られた。新吉原から同寺への投げ込み総数は江戸期を通じて 2 万人を超えると推定される要出典。福田利子『吉原はこんな所でございました』(2010)は、昭和初期まで残った吉原の元遊女の証言を通じて、近世から近代に至る廓の労働実態を詳細に記録している。

解放令と娼妓概念への移行

1872 年(明治 5)10 月、太政官布告第 295 号「芸娼妓解放令」が発布された。同年 7 月のマリア・ルス号事件(ペルー船籍の苦力(クーリー)船で奴隷契約のもと労働を強いられた中国人をめぐる国際裁判)を契機に、奴隷的拘束の禁止という近代法理を国内にも適用する形で発令された。これにより、遊女・芸妓を含むすべての年季奉公契約が原則無効とされ、遊女は法的には自由を回復した。

しかし実態は、「娼妓」という新たな法令用語のもとで公娼制度が再編成される結果となった。各府県の貸座敷取締規則により、遊女は「貸座敷」の店子として営業届を出す形に擬制され、公認遊廓の経営は実質的に存続した。1900 年(明治 33)の娼妓取締規則は、娼妓の自由廃業権を明文化したが、契約上の前借金返済義務が廃業の事実上の障害となった。

戦後の廃止と現代の地区

1946 年(昭和 21)1 月、GHQ の覚書により公娼制度は廃止され、貸座敷の営業も禁止された。しかし業者は「特殊飲食店」(通称・赤線)として営業を継続し、廓地区の風景は実質的に維持された。1956 年(昭和 31)の売春防止法成立、1958 年(昭和 33)4 月 1 日の同法完全施行により、公娼制度の制度的存続は完全に終結した。

現在の吉原・島原・新町等の旧遊廓地区は、別形態の風俗営業地として継続している。吉原はソープランド集積地として、戦後の風俗業地図の中で独自の位置を保持している。

廓内部の身分序列

近世遊廓における遊女の身分序列は、廓ごとに異なる体系を持ったが、共通する構造として以下の階層が確認できる。

廓の頂点は太夫(花魁)で、教養・芸事・容姿の三拍子を備えた最高位の遊女である。その下に「天神」「鹿恋」「散茶」「梅茶」「端」等の格付けが続き、揚代・接客様式・身につける衣装・付き従う禿(かむろ)・新造(しんぞう)の数まで厳密に区別された。

遊女に付き従う未成年の女子は「禿(かむろ)」と呼ばれ、概ね 7-8 歳から遊女屋に住み込み、雑用と並行して読み書き・三味線・舞踊・茶道・華道等の教養を仕込まれた。15 歳前後で「新造(しんぞう)」となり、20 歳前後で「突き出し」(初披露)を経て一人前の遊女となる。この育成過程は、遊女が単なる性労働者ではなく、近世都市文化の様式美の体現者として機能した制度的背景を成した。

芸妓は、遊女と概念上区別される。芸妓は歌舞音曲の芸を売る職能者であり、原則として性的奉仕は業の一部ではない。遊女が「色を売る」のに対し、芸妓は「芸を売る」とされる。両者の区別は江戸期半ば以降に制度化され、京都の祇園・大阪の北新地・東京の新橋等に芸妓町が独立して成立した。ただし下級芸妓の中には性的関係を持つ者もおり、両者の区別は実務上は流動的であった。

文化的影響

浮世絵と春画

近世遊廓の遊女は、浮世絵春画の中核的主題となった。鈴木春信・鳥居清長・喜多川歌麿・歌川国貞らの美人画は、吉原の遊女を理想化された都市美人像として描いた。歌麿の「青楼十二時」「歌撰恋之部」連作、国貞の「青楼美人合鏡」等は、遊女文化を視覚的に体系化した代表作である。

春画においても遊女は中心的主題となり、廓の風俗・客と遊女の交わり・廓特有の調度品が詳細に描写された。これら美術作品は、近世日本の都市文化を後世に伝える一次史料としての価値を持つ。

文学と歌舞伎

近松門左衛門の世話物浄瑠璃は、遊女と町人男子の心中を主題とする作品を多く残した。『曽根崎心中』(1703、お初)、『心中天網島』(1721、小春)等は、遊女と客の関係を悲劇として様式化した。井原西鶴『好色一代男』『好色五人女』(17 世紀後半)は、廓を舞台とする浮世草子の系譜を確立した。

歌舞伎においても、遊女は「傾城買い」物の中心人物として頻繁に登場した。河竹黙阿弥『三人吉三廓初買』(1860)等は、廓を舞台とする世話物の代表例である。

服飾と髪型

遊女、特に花魁の服飾・髪型は、近世日本の流行発信地として機能した。前帯結び(帯を体の前で結ぶ独特の結び方)、八文字歩き(高さ 20 cm 以上の三枚歯下駄での歩行様式)、立兵庫・横兵庫等の華麗な髪型は、いずれも吉原から町方へ波及した様式美である。

現代における再評価

近世遊女文化の再評価は、20 世紀後半以降の女性史・ジェンダー研究の進展とともに進行した。佐伯順子『遊女の文化史』(1987)、田中優子『江戸の女』(2009)等は、文化史的意義の側面に光を当てる一方で、人身売買・人権侵害の側面を併記する慎重な記述を心掛けている。

メディア表現の領域では、宮本由紀子『廓の女たち』、フィクション作品としての『花魁』(安野モヨコ『さくらん』2003)、映画『さくらん』(2007、蜷川実花監督)等、近世遊女文化を再構築する試みが継続している。一方で、観光・ファッション領域での「花魁体験」「花魁コスプレ」等は、近世遊女の苛烈な労働実態を脱色する形で消費される傾向があり、当事者性を欠いた商業利用として批判されることもある。

倫理的留意

遊女制度は、近世日本の都市文化に決定的な影響を与えた一方、女性の身売り・年季奉公・廃業の困難・廓内部の暴力等を構造的に含む制度であった。本項は文化史的記述を主としつつ、人権侵害の側面を看過しない姿勢で記述する。現代における近世遊女文化の参照・再構築においても、当該歴史的暴力への眼差しを保つことが、文化史的責任の前提を成す。

関連項目

参考文献

  1. 上村行彰 『日本遊里史』 春陽堂 (1929)
  2. 福田利子 『吉原はこんな所でございました―廓の女たちの昭和史』 ちくま文庫 (2010)
  3. 佐伯順子 『遊女の文化史』 中公新書 (1987)
  4. Seigle, Cecilia Segawa 『Yoshiwara: The Glittering World of the Japanese Courtesan』 University of Hawaii Press (1993)
  5. 『娼妓解放令』 太政官布告 第295号 (1872) — 芸娼妓解放令
  6. 『売春防止法』 法律 第118号 (1956)

別名

  • 遊女
  • 傾城
  • 娼妓
  • keisei
  • shougi
  • courtesan
  • prostitute
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