公娼制度
明治の初め、横浜の港にペルー船籍のマリア・ルス号が入港した。船内で虐待されていた中国人苦力の解放を求めた日本側に対し、ペルー側は「日本も遊女を年季奉公として拘束しているではないか」と反論した。日本政府は外圧に応える形で、1872 年に芸娼妓解放令を発布した。しかし解放されたのは法形式上の「身柄」のみであり、自由意志による「貸座敷契約」へと書き換えられた女性たちの労働実態は変わらなかった。これが、近代日本の公娼制度の出発点であった。
公娼制度(こうしょうせいど)は、国家の認可と登録のもとで、特定の女性の売春営業を管理・許可する近代日本の制度である。1872 年(明治 5 年)の太政官布告第 295 号(芸娼妓解放令)を起点とし、1900 年(明治 33 年)の娼妓取締規則(内務省令第 44 号)によって全国的に体系化、1946 年(昭和 21 年)に占領軍の指示により廃止された。1956 年制定・1958 年完全施行の売春防止法により、後継の特殊飲食店(赤線)業態も法的に終焉した。
概要
公娼制度は、近世の廓制度を継承・再編する形で成立した近代の性売買管理制度である。国家の認可した特定地区(指定地)において、登録された娼妓のみが売春営業を行うことを許可し、それ以外の地区・人物による売春行為(=私娼)は取締の対象とされた。制度の建前は「衛生管理」「風紀管理」「人身売買防止」であったが、実態は娼妓の身柄拘束と借金返済の循環を制度的に保障する仕組みであった。
公娼制度の対象となった女性を「公娼」または「娼妓」と呼び、これに対して非認可の売春従事者を「私娼」と呼ぶ。両者は法制度上の対立概念であり、制度の二重構造を構成する。本項目では、公娼を主題とし、私娼については別項にて扱う。
前史:近世の廓制度
公娼制度の前史として、近世の廓制度がある。徳川幕府は吉原・島原・新町などの公認廓を設置し、年季奉公契約による遊女の身柄拘束、出入口の物理的管理、税収の確保を組織化した。近世の廓制度は、近代公娼制度の制度的原型を成し、特に「指定地での営業」「年季契約による身柄拘束」「税収管理」という三要素は、近代に直接引き継がれた。
近世においては「私娼」(岡場所での非公認売春)と「公娼」(廓所属の遊女)の区別がすでに存在し、幕府は岡場所の取締を継続的に行っていた。この二重構造もまた、近代公娼制度に継承された。
成立過程
マリア・ルス号事件と芸娼妓解放令(1872)
1872 年(明治 5 年)6 月、ペルー船籍のマリア・ルス号が横浜港に入港した。船内では中国人苦力(クーリー)が劣悪な環境で虐待されており、日本側が苦力解放を裁定した。これに対しペルー側は「日本国内の遊女・芸妓も同様の人身的拘束を受けている」と反論し、国際的批判の対象となった。
事態を受け、明治政府は同年 10 月に太政官布告第 295 号(芸娼妓解放令)を発布した。同令は、人身売買の禁止、娼妓・芸妓の身柄拘束の解放、年季奉公契約の無効化を定めた。形式上は娼妓・芸妓の人身解放を実現する画期的法令であった。
しかし実態としては、解放令の発布翌月に司法省が「貸座敷渡世規則」を定め、業者(楼主)が「座敷を貸す」業態として営業を継続することを許可した。娼妓は表向きは自由意志により貸座敷で営業する独立業者として位置づけられたが、実質的には借金(前借金)による経済的拘束のもとで楼主の管理下にあった。これにより、人身的拘束は形式上禁止されつつ、経済的拘束による事実上の身柄拘束が制度化された。
貸座敷規則の整備(1873-1900)
1873 年(明治 6 年)以降、各府県は個別に貸座敷規則・娼妓規則を制定し、地方ごとに指定地・登録手続・税制を整備した。東京府令第 145 号(1873)、京都府の規則、大阪府の規則などが先行的事例として知られる。指定地は近世の廓地区がほぼそのまま継承され、吉原・島原・新町・伊勢古市・長崎丸山などが新たに「貸座敷免許地」として再認定された。
明治 10 年代-20 年代にかけて、各地の指定地では貸座敷の営業が拡大し、新規の指定地の認可も進んだ。同時に、指定地外で営業する非認可業者・非登録娼妓(私娼)の取締も行われた。
娼妓取締規則(1900)による全国一元化
1900 年(明治 33 年)10 月 2 日、内務省令第 44 号として娼妓取締規則が発布された。同規則は、それまで各府県でばらばらであった娼妓管理を全国一元的な基準で整備し、近代公娼制度の確立を画した法令である。
主要規定は以下の通り。 第一に登録制があり、娼妓となる女性は警察に登録し、娼妓鑑札の交付を受ける必要があった。第二に年齢制限が設けられ、娼妓登録の最低年齢は満 18 歳と定められた(同年 4 月の大審院判決による自由廃業の確立を受けた措置)。第三に健康管理として、登録娼妓は定期的な性病検査を義務づけられ、検査結果は鑑札に記録された。第四に居住制限が課され、登録娼妓は指定地内の貸座敷に居住し、外出には届出を要した。第五に自由廃業権が制度化され、1900 年 2 月の大審院判決により認められた廃業の自由をもとに、娼妓は本人の意思により登録を抹消できるとされた。
自由廃業運動と大審院判決
1900 年 2 月の大審院判決は、公娼制度史において重要な転換点であった。同判決は、娼妓の前借金契約が公序良俗に反するため無効とし、娼妓は本人の意思により廃業できると認めた。これを受けて全国で「自由廃業運動」が展開し、キリスト教団体・廃娼団体が娼妓に廃業を呼びかけ、業者に対する法的支援を行った。
しかし実態としては、廃業に伴う前借金返済義務(別の名目で再請求された)、家族への返済代替請求、出身地への帰還困難などの障壁により、自由廃業は法形式上の権利にとどまり、実際の廃業件数は限定的であった要出典。
制度の構造
指定地と貸座敷
公娼制度下の営業は、各府県が指定する「貸座敷免許地」(指定地)においてのみ認められた。指定地は近世の廓地区を継承する場合が多く、吉原・島原・新町・五条楽園(七条新地)などが代表例である。指定地内の業者は「貸座敷業」として認可を受け、娼妓に部屋(座敷)を貸す業態で営業した。
形式上、貸座敷業者と娼妓は独立した契約関係にある「業者と独立業者」であった。しかし実態としては、貸座敷業者が娼妓の家族に前借金(数百円から数千円)を支払い、娼妓は前借金返済のために業者に拘束されるという、近世の年季奉公の経済的版が成立していた。
娼妓登録と鑑札
娼妓となるには警察への登録手続が必要で、本籍地・親権者の同意・健康診断・面接などを経て、娼妓鑑札の交付を受けた。鑑札には本人の写真、本籍、登録番号、健康診断記録などが記載され、営業時の携帯が義務づけられた。
登録手続には親権者の同意書、戸主の承諾書などが必要であり、貧困家庭が娘を娼妓として登録させる事例が多発した。これは形式上「自由意志」「同意」を装いながら、実質的な人身売買を継続させる仕組みであった。
性病管理
公娼制度の正当化根拠の一つは「性病管理」であった。娼妓には定期的な性病検査(主に梅毒・淋病)が義務づけられ、検査結果は鑑札に記録された。陽性反応を示した娼妓は「駆梅院」と呼ばれる隔離施設に強制収容され、治療を受けた。この検査・治療制度は、公衆衛生政策の一環として位置づけられた。
しかし、性病管理の対象は娼妓のみであり、客側の管理は行われなかった。これにより「不潔な娼妓 vs 健康な男性客」という非対称な前提が制度化され、女性側のみに身体管理の責務が課された。フェミニズム的批判の重要な論点の一つである。
廃娼運動
廃娼運動の系譜
公娼制度に対する反対運動を「廃娼運動」と呼ぶ。明治 10 年代以降、キリスト教団体(日本基督教婦人矯風会・救世軍)、社会主義団体、女性解放団体、医療団体などが連携して展開した。
主な担い手として、矯風会(1886 設立、初代会頭・矢島楫子)、救世軍(1895 来日)、廃娼期成同盟会(1893 設立)などがあり、機関誌『婦人新報』『廓清』『廃娼』などを通じて、公娼制度の人権侵害性、性病拡大の実態、自由廃業の支援などを訴えた。
群馬県・神奈川県の廃娼決議
廃娼運動の地方的成果として、1893 年(明治 26 年)の群馬県議会による廃娼決議が知られる。同決議は実施までに時間を要したが、1933 年に至り公娼制度の県内廃止が実現した。神奈川県(1934)、秋田県(1937)などの地方議会も廃娼決議を行い、地方レベルでの公娼制度廃止が漸進的に進行した。
しかし全国的廃止には至らず、内務省は公娼制度の維持を基本方針とし続けた。地方廃止を行った県でも、隣接県への営業移転、特殊カフェー(後述)による事実上の継続などにより、性売買の実態は完全には解消されなかった。
戦時下の動向
1930 年代後半から第二次世界大戦期にかけて、戦時体制の強化に伴い、廃娼運動は活動を制限された。一方、軍は別の制度として「慰安所」を組織し、戦地での性売買管理を行った。慰安婦問題は公娼制度とは別系統の問題であるが、人身的拘束・性病管理・地域差別といった共通要素を持ち、近年の研究では両者の連続性が論じられている。
廃止と戦後
1946 年の廃止と赤線への移行
1945 年(昭和 20 年)8 月の敗戦後、日本占領を担当した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、公娼制度の廃止を方針として打ち出した。1946 年(昭和 21 年)1 月、GHQ 覚書「日本における公娼の廃止に関する件」が発出され、同月 21 日に日本政府は娼妓取締規則を廃止した。
しかし同時期、政府は「特殊飲食店」という新たな業態を認可し、形式上は飲食店として営業しつつ実態として性売買を継続する地区を「赤線」として黙認した。これは公娼制度の事実上の継続であり、娼妓登録という制度的拘束を外した代わりに、自由業態として性売買を継続させる仕組みであった。
戦後赤線の指定地区の多くは、戦前の公娼制度下の指定地と重なり、吉原・島原・五条楽園・新町などが赤線として営業を継続した。
売春防止法による完全終焉
1956 年(昭和 31 年)5 月、売春防止法が制定され、1958 年 4 月 1 日の完全施行により、赤線業態は法的に終焉した。これにより、近世以来の公認売春制度の系譜は約 340 年の歴史を公式に閉じた。
廃止後、旧指定地の業者の多くは特殊浴場(ソープランド)・キャバレー・スナックなどの新業態に転換し、性風俗業は法の枠外で再編された。
国際比較
フランスの規制主義
近代日本の公娼制度は、19 世紀フランスの規制主義(réglementarisme)に強い影響を受けた。フランスでは 1804 年のナポレオン以後、登録制・健康診断・指定地という三要素からなる公娼制度が整備され、ヨーロッパ規制主義のモデルとなった。日本の娼妓取締規則は、この系譜のアジア的展開として位置づけられる。
ドイツ・タイ等
ドイツでも 19 世紀後半に同様の規制主義が広がり、第二次大戦後に廃止された。タイ、フィリピンなどのアジア諸国では、植民地期の影響により規制主義が部分的に導入され、現代に至るまで形を変えて存続する場合がある。
これに対し、英国・米国は廃止主義(abolitionism)を選択し、公娼制度を持たない方針を採った。英国の伝染病予防法(Contagious Diseases Acts, 1864-1869)は規制主義への試みであったが、ジョセフィン・バトラーらの廃娼運動により 1886 年に廃止された。
文化史的意義
公娼制度は、近代日本のジェンダー秩序・国家・公衆衛生の交錯点として、近現代史の重要な研究対象である。同制度は、女性の身体を国家管理の対象とすることで男性の性的・経済的自由を保障する非対称な構造を持ち、近代家族制度・近代戸籍制度・近代公衆衛生制度と相補的に機能した。
廃止から半世紀以上を経た現代においても、性売買と国家の関係、性病管理と人権、女性の経済的自立と性売買、地域差別と性売買集中地区など、公娼制度が残した論点は形を変えて現代の議論の一部を成している。本項においても、公娼制度を歴史的事実として記述するのみならず、その遺制が現代に及ぼす影響を批判的に検討する立場を採る。
関連項目
参考文献
- 『近代公娼制』 Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%85%AC%E5%A8%BC%E5%88%B6
- 『近代日本公娼制度の社会史的研究』 不二出版 (1997)
- 『娼妓取締規則』 明治33年内務省令第44号 (1900)
- 『売春防止法』 法律 第118号 (1956)
- 『廃娼運動の歴史』 国立国会図書館 第84回常設展示 https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_999364_po_84.pdf
- 『Selling Women: Prostitution, Markets, and the Household in Early Modern Japan』 University of California Press (2012)
別名
- 公娼
- 娼妓制度
- 貸座敷制度
- 娼妓取締規則
- Licensed Prostitution