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吉原

yoshiwara
分類歴史・文化 用例新吉原に遊郭が移された」 吉原の太夫について調べる」 用法名詞 ▸ 累計 PV

吉原とは、江戸時代の江戸において唯一の幕府公認遊廓として機能した地区であり、近世日本の都市文化・芸能・服飾・出版の中核的発信地の一つであった。

吉原(よしわら)は、1617 年(元和 3 年)に江戸幕府の公認を得て成立した遊廓地区であり、明暦の大火(1657)後に浅草寺裏(現在の東京都台東区千束)へ移転した「新吉原」を含めて、約 340 年間にわたり江戸・東京の主要な遊廓として機能した。1958 年の売春防止法完全施行により遊廓としての営業は終了したが、現代の同地区は別形態の風俗営業地として継続している。本項では成立から廃止までの歴史、文化的影響、現代との関係を扱う。

概要

吉原は、江戸時代を通じて幕府公認の遊廓制度の中核に位置し、京都の島原、大阪の新町と並ぶ「三大遊廓」の一つに数えられた。遊女屋(妓楼)、揚屋・茶屋などの施設が集積し、遊女と呼ばれる女性たちが居住・営業する閉鎖的地区を成した。同地区は単なる性風俗の場ではなく、文学・浮世絵・歌舞伎・服飾・舞踊・音曲・出版の発信地としても機能し、近世日本の都市文化に決定的影響を与えた。

近年の歴史学は、吉原を肯定的・郷愁的に捉える従来の文学的言説と、女性の身売り・搾取の場としての批判的観点との両面を慎重に扱う必要性を指摘している。本項においても、文化史的意義と人権上の問題の双方を併記する。

成立と前史

元和の創設

吉原の成立は、1617 年(元和 3 年)、江戸の遊女屋経営者・庄司甚右衛門の請願により、幕府が江戸日本橋葺屋町・浮世小路(現在の中央区日本橋人形町付近)に遊廓地区を公認したことに遡る。「葭原」(よしはら)と呼ばれた湿地帯を埋め立てて造成したことが地名の由来であり、後に「吉原」と表記されるようになった。

幕府による遊廓公認の背景には、増加する江戸市中の遊女屋を一区画に集中させることで、犯罪・治安・税収管理を一元化する都市行政上の意図があった。当該時期の江戸は急速に拡大する新興都市であり、参勤交代制度の確立に伴う武士の単身赴任・職人層の流入により、男性人口が女性人口を大幅に上回る状況にあった。

明暦の大火と新吉原への移転

1657 年(明暦 3 年)の明暦の大火により、当時の元吉原は焼失した。同年、幕府の指示により浅草寺裏の千束村(現・台東区千束)に移転再建が行われ、これを「新吉原」と呼ぶ。新吉原は、田畑に囲まれた郊外的立地を持ち、唯一の出入口である「大門」と、それを取り囲む「お歯黒どぶ」(掘割)により隔絶された構造を持つに至った。

新吉原の建築・空間構造は、その後の遊廓制度のモデルとして機能した。江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、揚屋町、角町といった町割りが整備され、最盛期には妓楼・茶屋を合わせて 200 軒以上、遊女数 3,000 名前後を擁する大規模地区となった。

階層構造と文化

遊女の階層

新吉原における遊女は、厳格な階層構造の下に置かれていた。最高位の太夫(後年の花魁)、その下の格子・散茶・梅茶・端女郎などの階層があり、各階層に応じて揚代(料金)・接客様式・居所が異なった。最高位の太夫・花魁は、教養・諸芸の習得が義務づけられ、和歌・書・茶道・三味線・舞踊・将棋などを身につけることが要求された。

最高位の遊女は、容姿・教養・人格を兼備した存在として演出され、客は高額の支払いと作法の遵守を要求された。「初会・裏・馴染み」と段階を経て関係を深める作法、「揚屋」での宴席を経て妓楼に至る手順など、独自の文化体系が形成された。

出版・浮世絵との関係

吉原は江戸期を通じて浮世絵春画・洒落本・黄表紙などの出版物の主要な題材であった。喜多川歌麿『青楼十二時』『当時三美人』、鈴木春信、葛飾北斎、渓斎英泉らによる遊女絵が大量に制作され、吉原の風物・遊女像が江戸文化の中心的視覚イメージを成した。

吉原を題材とする出版物は、遊廓内部の事情や格付けを記した「吉原細見」(現代のグルメガイドに相当する案内書)として継続的に刊行され、蔦屋重三郎などの版元が同地区を経営拠点とした。

季節行事

吉原は江戸の年中行事の中心地の一つでもあり、桜の植樹(仲ノ町の夜桜)、八朔(陰暦 8 月 1 日の白無垢出着)、玉菊燈籠などの季節行事が観光的興行として機能した。これらは遊廓内部のみならず、町人層の娯楽・観光対象として広く江戸市中で享受された。

明治以降の変遷

芸娼妓解放令と公娼制度

明治維新後、1872 年(明治 5 年)の太政官布告(芸娼妓解放令)により、人身売買による遊女の身柄拘束は形式的に禁止された。しかし実態としては、自発的契約形式に切り替えられただけで、貧困層からの女性の人身的拘束は継続した。

その後、貸座敷規則・娼妓取締規則(1900)の整備により、近代的公娼制度が成立し、吉原は同制度下の指定地区として機能を継続した。

廃娼運動と戦時下

明治後半から大正期にかけて、廃娼運動(キリスト教団体・婦人運動団体による公娼制度廃止運動)が展開され、吉原をはじめとする遊廓制度に対する批判が継続的に行われた。1930 年代を通じて複数の県議会で公娼制度廃止が議決されるなど地方レベルでの動きが進行したが、全国的廃止には至らなかった要出典

第二次世界大戦中、吉原は空襲被害を受け、1945 年 3 月の東京大空襲で大規模な焼失を経験した。

戦後と売春防止法

戦後、占領軍の指示により公娼制度は 1946 年(昭和 21 年)に廃止された。しかし、同年中に「特殊飲食店街」(俗称・赤線)として営業が再開され、吉原を含む全国の旧遊廓地区は引き続き性売買の事実上の集中地として機能した。

1956 年(昭和 31 年)制定、1958 年完全施行の売春防止法により、赤線業態は法的に終焉した。これにより吉原は約 340 年にわたる遊廓・売春地区としての歴史を公式に閉じた。

現代との関係

ソープランド業態への転換

売春防止法施行後、旧吉原地区の業者の多くは、新たに「特殊浴場」(後のソープランド)業態へと転換した。法的には浴場業として営業し、性的サービスは「自由恋愛」の枠組みとして黙認されるという、戦後日本の性風俗業界における中心的な業態が、吉原地区を含む各地で発達した。

現代の同地区(東京都台東区千束)は、台東区最大のソープランド集中地区として機能している。江戸期遊廓の地理的範囲とほぼ重なる区画に、現代の合法業態が集積する空間配置は、性風俗業の歴史的連続性を示す例として、しばしば論じられる。

史跡・文化遺産

旧吉原地区には、吉原弁財天、見返り柳、吉原神社など、遊廓時代を伝える史跡が現存する。台東区により案内板の整備が行われており、観光・歴史教育の対象としても機能している。一方、遊廓制度の負の側面(身売り・搾取・人権侵害)を併記する歴史記述の重要性が、近年の地域史・女性史研究において強調されている。

文化史的意義

吉原は、近世日本の都市文化の生成・流通の重要な節点であった。文学(井原西鶴『好色一代男』、為永春水の人情本)、演劇(歌舞伎の世話物・遊女物)、絵画(浮世絵春画)、音曲(端唄・小唄)、服飾(花魁の衣装・髪型)など、近世日本の主要な美的・文化的伝統の多くが、吉原を発信地ないし題材として発展した。

同時に、近代以降の歴史記述においては、文化史的意義の称揚が遊廓制度の人権侵害的側面を覆い隠す危険性が指摘されており、両側面を併記する記述が求められる。本項においても、吉原を文化的称揚の対象としてのみ記述する立場は採らない。

関連項目

参考文献

  1. 石井良助 『吉原遊廓』 中公新書 (2012)
  2. Seigle, Cecilia Segawa 『Yoshiwara: The Glittering World of the Japanese Courtesan』 University of Hawaii Press (1993)
  3. 喜田川守貞 『近世風俗志(守貞謾稿)』 (1837-1853)
  4. 『売春防止法』 法律 第118号 (1956)
  5. 福田利子 『吉原はこんな所でございました―廓の女たちの昭和史』 ちくま文庫 (2010)

別名

  • 吉原遊廓
  • 新吉原
  • Yoshiwara
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