オナニー
旧約聖書に登場する一人の男の名が、医学用語を経て日本語に定着した。
オナニー(おなにー、独: Onanie)とは、自身の身体に対して性的快感を得る目的で行う行為、すなわち自慰(じい)を指す名詞である。日本語では他に「マスターベーション」「自慰」「自瀆」(じとく)等の同義語があり、サブカル領域では「オナ」と略されることもある。本項では語源、歴史、医学・社会的言説の変遷、現代日本における文化的展開について述べる。
概要
オナニーは性行為のうち他者の関与を必要としない形態であり、人類史を通じて広範な地域・時代に文献的・図像的記録を残す行為である。現代の医学・心理学の観点からは、思春期以降のヒトに普遍的に見られる発達現象として位置づけられ、健康な性発達の一過程として概ね肯定的に扱われている。
日本語における「オナニー」は、ドイツ語 Onanie の音転写であり、明治期以降の医学用語として日本に導入された。同義の漢語「自慰」は古典中国語に語源を持つが、近代以降は「オナニー」と並列して使用されている。サブカル領域(成人向け表現)では、当該行為を主題化した作品群が独立ジャンルとして確立しており、大人のおもちゃを用いる形態、ASMR・主観演出による鑑賞型作品など、多様な派生形態を持つ。
語源
聖書の人物オナン
語の起点は『旧約聖書』「創世記」第 38 章に登場するヘブライ人オナン(Onan)である。彼は兄エルの死後、レビラト婚(寡婦に対し夫の兄弟が娶る慣習)に従い兄嫁タマルと結ばれることを父ユダから命じられたが、生まれる子が自分の系譜に属さないことを嫌い、性交時に「種を地に流した」と記される(創世記 38:9)。神はこれを罪として彼を打ち殺した、というのがエピソードの骨子である。
この物語の解釈をめぐり、後世のキリスト教神学者は二つの読みを並列させる。第一は、レビラト婚の義務を果たさなかったことを罪とする社会規範的解釈。第二は、種(精液)を生殖以外の目的で放出したことを罪とする生殖中心主義的解釈である。後者が支配的になるなかで、オナンの名は「生殖目的でない射精」全般の象徴語として定着していった。
1716 年 Onania と医学用語化
英語圏で「オナンの罪」が自慰行為と直結したのは 18 世紀である。1716 年(諸説あり、1712–1716 年)、ロンドンで匿名出版されたパンフレット『Onania; or, The Heinous Sin of Self-Pollution and All Its Frightful Consequences in Both Sexes』が当該結合を一般読者層に流布した。同書は自慰がもたらす身体的・精神的害悪を詳細に列挙し、20 万部を超える版を重ねるベストセラーとなった。
1760 年、スイスの医師サミュエル=オーギュスト・ティソが『L’Onanisme』(『オナニスム論』)を刊行する。ティソは自慰を医学的疾病の原因として位置づけ、当該行為が結核・てんかん・記憶障害・盲目等を惹起すると主張した。同書はラテン語・ドイツ語・英語等に翻訳され、19 世紀全般を通じて欧州医学界の標準的見解として定着した。「オナン」「オナニー」の語が医学用語として国際的に通用するようになるのは、ティソの著作の影響である。
日本への流入
明治期、日本に近代医学が導入される過程で、ドイツ語 Onanie が「オナニー」として転写・流入した。1880 年代以降、文部省・陸海軍の衛生指導書、医学雑誌、青年向け修養書において「オナニー」「自瀆」「手淫」等の語が並列使用され、「健康を損なう悪習」として強く戒める言説が一般化した。森鷗外、二葉亭四迷、夏目漱石等、明治期の文学者の日記・書簡にも当該語の用例が確認されている。
歴史
キンゼイ報告と「正常化」
20 世紀前半まで、欧米・日本ともに自慰は医学的・道徳的問題として否定的に扱われる傾向が強かった。この潮流を決定的に転換させたのが、1948 年の『キンゼイ報告』(男性篇)である。米国インディアナ大学のアルフレッド・キンゼイらによる大規模統計調査は、調査対象男性の 92%、女性の 62%(1953 年女性篇)が自慰経験を持つことを示し、「異常」とされてきた行為が統計的にはむしろ「普遍的」であることを実証した。
以降、米国心理学会(APA)・米国小児科学会(AAP)等の学術団体は、自慰を健康な性発達の一過程として位置づける立場を取るようになる。日本においても、1970 年代以降の性教育・性科学言説のなかで、否定的評価から肯定的・中立的評価への転換が段階的に進行した。
サブカル文化との接続
1980 年代以降、日本のアダルトビデオ・エロ漫画・同人誌領域では、自慰を主題化した作品群が独立ジャンルとして確立した。女性側の自慰場面を鑑賞する「オナニー鑑賞」型作品、大人のおもちゃを用いる形態、痴女による「オナサポ」(自慰補助)演出等、多様な下位区分が定着している。
2000 年代以降はASMR音声作品の普及に伴い、視覚的描写を最小化し聴覚的没入を中心に据えた自慰補助作品が独立市場を形成した。同人音声レーベルから商業流通までの裾野は広く、語り手側の声優の個性が商品差別化の主軸となる業界構造を持つ。
派生形態
自慰補助演出(オナサポ)
第二人称視点で語りかける女声音源・映像により、聴者・視者の自慰行為に伴走する演出形式。「オナニー・サポート」の略称として 2000 年代後半以降に定着した語であり、現代のASMR・音声作品市場における主要ジャンルの一つである。
相互自慰
複数人が同一空間で互いの自慰を観察しあう形態。複数プレイ・痴女演出と接続して用いられることがある。
道具を用いる形態
大人のおもちゃ(バイブレータ・電動マッサージ器・オナホール等)を補助に用いる形態。市場規模は世界的に拡大傾向にあり、日本の TENGA(2005 年創業)、米国の Hitachi Magic Wand(1968 年発売)等、各国の代表的製品が国際的に流通する。
文化的言及
宗教史・思想史の領域では、自慰に対する道徳的評価は文化により大きく異なる。ユダヤ・キリスト教的伝統は概ね否定的に位置づけてきた一方、ヒンドゥー教・道教・タントラ等の東洋系思想体系には自慰を含む性的実践を肯定的に評価する系譜も存在する。
文学領域では、フィリップ・ロス『ポートノイの不満』(1969)をはじめ、当該行為を主題化した作品群が 20 世紀後半以降の現代文学に多数登場する。日本においては、村上龍、町田康、西村賢太等の作品群に当該描写が頻出し、青春小説・私小説の系譜における重要な主題となっている。
公衆衛生上の観点からは、自慰行為そのものは健康リスクを伴わないが、頻度・状況によっては個人の生活機能に支障を生じる場合があり、性的依存・強迫的性行動の臨床的議論の対象となる。
関連項目
参考文献
- 『性の用語集』 講談社現代新書 (2004)
- 『Sexual Behavior in the Human Male』 W. B. Saunders (1948)
- 『Onania; or, The Heinous Sin of Self-Pollution』 London (1716) — 自慰を罪悪視する言説の起点とされる匿名パンフレット
- 『L'Onanisme』 Lausanne (1760)
- 『Onanie, n.』 Duden Online https://www.duden.de/rechtschreibung/Onanie