BDSM
縛ること、訓えること、支配すること、従うこと、加虐、被虐。一見ばらばらに見える六つの主題が、合意と信頼の枠組みのもとで結びつき、一つの国際的サブカルチャーを構成する。
BDSM(ビーディーエスエム)とは、Bondage(拘束)、Discipline(訓練)、Dominance(支配)、Submission(服従)、Sadism(加虐)、Masochism(被虐)の頭字語であり、相互に重なり合う六つの実践領域を包括する性的サブカルチャーの総称である。1990 年代初頭の英語圏SMコミュニティにおいて成立した造語であり、現在では国際的な共通カテゴリ語として運用される。日本における従来の「SM」概念に対応するが、より広範な実践領域を包含する点と、合意・安全・正気を旨とする倫理プロトコル(SSC・RACK)を共有する責任あるコミュニティの自己呼称である点に独自性を持つ。本項では成立、構成要素、倫理規約、文化史について述べる。
概要
BDSM の中核は、(a) 参加者間の事前合意と相互信頼を前提とすること、(b) 役割演技ないし非対称関係を媒介として性的・情緒的快楽を追求すること、(c) コミュニティ内で共有される倫理プロトコルに従って実践すること、の三点に集約される。実践の表層は支配と服従、加虐と被虐を伴う場合があるが、その本質は両参加者の自発的選択と相互信頼に根差す親密な関係様式である。
実践共同体は SSC(Safe, Sane, Consensual: 安全・正気・合意)を基本指針として共有する。第一に「安全」は、身体的・心理的安全への配慮、緊急時の即時停止可能性、医療的知識の共有を要請する。第二に「正気」は、酩酊状態・薬物影響下・極度の感情興奮状態における実践の回避を要請する。第三に「合意」は、明示的・継続的・撤回可能な合意の確認を要請する。1990 年代後半以降、SSC を発展させた RACK(Risk-Aware Consensual Kink: リスク認知の上での合意)、ならびに 2010 年代以降の PRICK(Personal Responsibility, Informed Consensual Kink: 個人責任を伴う情報合意キンク)等の派生指針も登場している。
BDSM の参加形態は、(1) Top / Bottom(トップ / ボトム: その場の役割)、(2) Dom / Sub(ドミナント / サブミッシブ: 関係内の役割)、(3) Switch(両役割を流動的に担う者)、(4) Master / Slave(マスター / スレイブ: 長期的・契約的関係)等の役割概念に基づく。役割は固定的ではなく、関係・場面・相手によって流動的に運用される慣行が多い。
語源と成立
BDSM という頭字語の成立は、1990 年代初頭の英語圏SMコミュニティにおける Usenet 掲示板上の議論に求められる。それまで個別に呼称されていた “B/D”(Bondage and Discipline: 拘束と訓練)、“D/S”(Dominance and Submission: 支配と服従)、“S/M”(Sadism and Masochism: 加虐と被虐)の三領域を統合する一語として造語された。要出典
構成要素の語源として、「サディズム」「マゾヒズム」は 19 世紀末のオーストリアの精神医学者リヒャルト・フォン・クラフト=エビング(Richard von Krafft-Ebing)が著書『性的精神病理学』(Psychopathia Sexualis, 1886 年)において、フランスの作家マルキ・ド・サド、オーストリアの作家レオポルト・フォン・ザッヘル=マゾッホの名から命名した医学用語に由来する。「ボンデージ」「ディシプリン」「ドミナンス」「サブミッション」は、20 世紀後半の英語圏SMコミュニティの自己呼称として確立した語形であり、BDSM 頭字語はこれら自己呼称的語形の体系的統合の結節点に位置する。
国際疾病分類(ICD-11、2018 年)・米国精神医学会診断基準(DSM-5、2013 年)では、合意ある成人間のサディズム・マゾヒズム的活動は精神疾患に該当しないことが明確化された。本人または他者に苦痛・障害・実害をもたらす場合に限り「性嗜好障害」として扱われる立場が現代精神医学の標準である。
構成領域
Bondage(ボンデージ、拘束)
縄、革、布、金属拘束具等を用いて参加者の自由運動を制限する実践領域。日本の緊縛伝統(shibari として国際的に普及)、西洋の革・チェーン式拘束、ロープによる単純拘束等、多様な技法体系を含む。芸術的・美的側面を持つ実践として、撮影・公開プレイ等の領域とも交差する。
Discipline(ディシプリン、訓練)
ルールの遵守、行動の制約、報酬と罰、訓練的関係等を内容とする実践領域。長期的関係における役割固定、行動規範の運用、儀礼的所作等が含まれる。「お仕置き」「服従訓練」「行動制約」等の具体的実践として現れる。
Dominance / Submission(ドミナンス/サブミッション、支配/服従)
関係性の非対称構造を主題とする領域。Dominant 側が決定権を持ち、Submissive 側がそれに従う構造を、両者の合意のもとで運用する。短時間のセッション内ロールから、長期的な「24/7 D/s」(常時 D/S 関係)まで運用形態は多様である。
Sadism / Masochism(サディズム/マゾヒズム、加虐/被虐)
苦痛と快楽の重なり合いを主題とする実践領域。スパンキング、衝撃プレイ、針プレイ、蝋燭プレイ等の物理的刺激を伴う技法を含む。当該領域の実践には、医学的安全知識・解剖学的知識が前提とされる場合が多く、コミュニティ内での教育・伝授が重視される。
隣接領域
目隠しを含む感覚遮断、ロールプレイ、フェティッシュ全般(革、ラテックス、ストッキング等)、公開プレイ、調教、監禁系プレイ等は、BDSM の派生領域ないし隣接領域として位置づけられる。これらは独立した実践領域でありながら、BDSM プロトコル下の運用において複合的に組み合わされる場合が多い。
倫理規約と安全実践
SSC(Safe, Sane, Consensual)
1980 年代の米国 BDSM コミュニティで定式化された基本指針。「安全」「正気」「合意」の三要素の同時充足を、責任ある実践の必要条件として要請する。コミュニティ標語として広範に流通し、現代の BDSM 実践の倫理的基盤を構成する。
RACK(Risk-Aware Consensual Kink)
1999 年に米国の Gary Switch が定式化した派生指針。要出典SSC の「安全」要件が、リスクのある実践(瀉血、針プレイ、息止め等)を排除する方向に作用しうる懸念に対応する形で、「リスクの認知のうえでの合意」を中核に据えた指針として提案された。SSC と RACK は対立的指針ではなく、参加者の経験段階・実践内容に応じて並列的に運用される。
セーフワード
プレイの即時停止を要請する事前合意の合図。一般語(「やめて」「離して」等)はロールプレイ内の演技と区別困難な場合があるため、プレイ文脈と無関係な語(「赤」「銀行」等)が運用されることが多い。信号機式(「緑 = 続行可」「黄 = 注意」「赤 = 中止」)の三段階運用も普及している。被サブミッシブ側が言語的中止能力を制約される場合(口の制約、感情的飽和等)は、把持物を落とす等の非言語的合図の事前合意が要請される。
アフターケア
プレイ終了後の心理的・身体的回復のための時間。プレイによる感情的高揚・身体的負荷の段階的解消、相互的肯定の交換、必要に応じた医療的処置を含む。経験ある実践者にとって、アフターケアはプレイそのものと同等に重要な構成要素として位置づけられる。
文化史
19 世紀末の精神医学における「倒錯」概念導入以降、BDSM 的実践は長年にわたり病理化の枠組みで論じられた。20 世紀前半は地下文学・専門雑誌・限定的クラブ文化の領域で当事者実践が継続された。1970 年代以降の米国西海岸を中心に当事者主導コミュニティが組織化され、1971 年設立の The Eulenspiegel Society、1974 年設立の Society of Janus 等が、当事者支援・教育・啓発活動を展開する代表的団体として活動を開始した。1980-90 年代には専門誌・書籍出版・年次イベントの体系が整備され、SSC 等の倫理プロトコルが定式化された。
2010 年代以降、E. L. ジェイムズ『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(2011 年)の世界的成功により、BDSM 表象がメインストリーム文化に浸透した。一方で、当該作品の表現が責任ある BDSM 実践と乖離する旨の指摘もコミュニティ内で多くなされ、表現と実践の関係を巡る議論を惹起した。日本では戦後のSMサブカルチャーが独自に発達した経緯があり、BDSM の語形は 2000 年代以降の英語圏コミュニティとの交流の進行に伴って導入された。日本固有の緊縛伝統(shibari)が BDSM の構成領域として国際的に評価される一方、SSC・RACK 等の倫理プロトコルが日本のコミュニティにも段階的に浸透した。
関連項目
参考文献
- 『Different Loving』 Villard Books (1993) — BDSM コミュニティの民族誌的研究
- 『Screw the Roses, Send Me the Thorns』 Mystic Rose Books (1995)
- 『The New Topping Book / The New Bottoming Book』 Greenery Press (2003)
- 『Psychopathia Sexualis』 Ferdinand Enke (1886)
- 『BDSM』 Wikipedia (English) https://en.wikipedia.org/wiki/BDSM
- 『DSM-5』 American Psychiatric Association (2013) — 性的サディズム障害・マゾヒズム障害の診断基準
別名
- ビーディーエスエム
- Bondage Discipline Sadism Masochism
- bondage and discipline
- dominance and submission