M女
服従の中に固有の主体性を見出す女性たち。文学が長く描いてきた心理風景は、現代日本のサブカルチャーに引き継がれている。
M女(えむおんな)とは、SM 関係において服従役を担う女性、または被支配的快楽を志向する女性を指す日本語固有の呼称である。マゾヒズム(masochism)の頭文字「M」と「女」とを連結した略語的造語で、戦後日本の SM 文化の発展過程で領域固有の役割呼称として定着した。対義語は「S 女」「S 男」、対をなす隣接語は「M男」である。
概要
M女は、SM ロールにおけるサブミッシブ(submissive)女性に相当する役割呼称である。狭義には合意プレイにおいて服従役を演じる女性、広義には被支配的志向・受動的快楽志向を有する女性一般を指す用語として用いられる。日本語圏では「M」を冠した呼称が「M男」「M女」として性別別に分節されており、英語圏の submissive(性別非依存)とは語彙構造が異なる。
戦後日本の SM 文学・映像表現の中核に置かれてきた役割であり、団鬼六『花と蛇』(1962 年連載開始)以降、無数の作品が当該役割を物語の中心人物として描いてきた。1970 年代の日活ロマンポルノ、1980 年代以降の成人向けビデオ・漫画・小説の各媒体において、M女主人公の物語は確固たるジャンルを形成している。
責任ある実践共同体において、M女としての実践は SSC(Safe, Sane, Consensual)あるいは RACK(Risk-Aware Consensual Kink)プロトコルの下、相手方との合意・信頼関係を前提に展開される。「服従する側」というロールの外見にもかかわらず、実質的にはセーフワード等の安全装置によりサブミッシブが場の最終決定権を保持する構造が共有されている。
語源
「M女」は、19 世紀末の精神医学者リヒャルト・フォン・クラフト=エビングが著書『性的精神病理学』(Psychopathia Sexualis, 1886 年)においてレオポルト・フォン・ザッヘル=マゾッホの名から命名した「マゾヒズム」(masochism)の頭文字「M」に、日本語「女」を連結した略語的造語である。
「M男」「M女」「S 男」「S 女」の四象限的呼称は、戦後日本の SM 雑誌・風俗業界用語として定着した日本固有の語彙であり、1960 年代以降の SM 雑誌『奇譚クラブ』(曙書房)誌面における用法を経て、1980 年代以降の風俗業界・成人向け出版において一般化した 要出典。
歴史と展開
文学的源流
被支配的快楽を志向する女性キャラクターを物語の中心に据える系譜は、世界文学において長い伝統を持つ。レオポルト・フォン・ザッヘル=マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』(1870 年)、ピエール・ルイス、ジョルジュ・バタイユ、ポーリーヌ・レアージュ『O 嬢の物語』(1954 年)などが、近代マゾヒズム文学の系譜を形成する。
『O 嬢の物語』はとりわけ、女性視点から被支配的快楽の心理を描いた古典として、後世の文学・映像表現に大きな影響を残した。同作の女性主人公 O 嬢は、後の M女表象の祖型のひとつとして、日本の戦後 SM 文学にも参照された痕跡を残している。
戦後日本における定着
日本における M女表象の領域用語としての定着は、戦後の SM 雑誌『奇譚クラブ』(曙書房、1947 年創刊)誌面における発達が起点となる。1950 年代以降同誌は SM 専門誌としての性格を確立し、1960 年代を通じて当該領域の中心媒体として機能した。
1962 年に団鬼六が花巻京太郎名義で同誌に連載を開始した『花と蛇』の女主人公・静子は、戦後日本 M女表象の事実上の標準を定めた人物として知られる。両腕を後手に縛られ、白い肌に縄目が食い込んだ静子の姿は、伊藤晴雨の責め絵以来の戦前日本 SM 美学を継承しつつ、戦後の新たな美学体系を立ち上げた。
1974 年には『花と蛇』が日活ロマンポルノで映画化され、谷ナオミが静子役を演じた。同作はその後も繰り返し映像化される長寿シリーズへと成長し、戦後日本 M女表象の中核作品としての地位を確立した。
媒体の多様化
1980 年代以降、成人向けビデオ・漫画・同人誌等の各媒体において、M女主人公の物語は独立した一ジャンルを形成した。媒体ごとに固有の物語文法を発達させつつ、「縛られ」「調教され」「変容していく」物語型を共通の骨格として共有している。
同人誌・成人向け漫画の検索タグ体系では、M女主人公作品は高頻度で出現する一群を形成し、「緊縛」「拘束」「調教」「SM」等の隣接タグとの複合検索で抽出される。
派生形態と隣接概念
役割の細分化
M女のうちでも、関係性の深度・実践内容により多様な細分化がある。短期合意プレイにおける役割演技に留まる軽度のケース、長期的調教関係性を志向する中重度のケース、生活全般における役割関係を志向する高度のケース等、関係の深度はスペクトラムを成す。
「ドM」「真性」「淫乱」
「ドM」(極端な M志向)、「真性 M」(役割演技を超えた本来的志向の意)、「淫乱」(性的活動への積極的志向)等の隣接語が、M女の細分化された類型を表現する語彙として用いられる。これらは厳密な定義を持つ術語というより、ファン文化・業界文化の中で流通する慣用表現として機能している。
海外概念との対照
英語圏の submissive(sub)、bottom、slave 等は M女に類似する概念であるが、性別非依存の語彙構造を持つ点で日本語の M女とは語彙論的に異なる。日本語の SM 語彙が性別による役割呼称の分節を強く保持する点は、戦後日本 SM 文化の固有性として指摘される特徴である。
文化的言及と現代の用法
文学的展開
戦後日本文学における M女表象は、団鬼六以降、宇能鴻一郎、黒沢美樹、館淳一らによって継承・発展された。同系譜は 1990 年代以降、ライトノベル・ウェブ小説・同人誌等の媒体に拡散し、商業領域を超えたユーザー創作の中核ジャンルとして定着した。
表現上の留意
M女表象は、合意ある関係性の演出として描かれる一方、現実の女性に対する暴力との混同を避けるための表現上の配慮を要する領域である。責任ある作家・出版社は、作品冒頭の虚構性明示・現実状況との混同を避ける旨の注記等を通じて、表現の自由と社会的配慮の両立を図っている 要出典。
関連項目
参考文献
- 『Psychopathia Sexualis』 Ferdinand Enke (1886)
- 『花と蛇』 奇譚クラブ(初出) (1962)
- 『毛皮を着たヴィーナス』 (1870)
- 『O 嬢の物語』 Jean-Jacques Pauvert (1954)
- 『奇譚クラブ』 曙書房 (1947-1975)