SM
縄、革、命令、信頼。痛みと支配の演劇に見えるそれは、相互の合意を礎にした親密な関係の形式である。
SM(エスエム)とは、サディズム(sadism)とマゾヒズム(masochism)の頭文字に由来する、苦痛・支配・服従・拘束等を伴う性的嗜好および関係様式の総称である。19 世紀末の精神医学において病理的概念として導入された両語が、20 世紀を通じて当事者コミュニティの自己呼称として再定義される過程を経て、現在では合意・安全・正気を旨とする独自のサブカルチャーとして確立している。海外では BDSM(Bondage, Discipline, Dominance, Submission, Sadism, Masochism の略)が包括語として広く流通する。
概要
SM 実践の中核は、参加者間の事前合意と相互信頼を前提に、支配する役(ドミナント、Dom)と服従する役(サブミッシブ、Sub)とがあらかじめ定めた範囲内で役割演技を行う点にある。両者の関係は、外見上は一方的支配関係に見える場合があっても、実質的にはサブミッシブが場の最終決定権を持つ構造を持つ。プレイの開始・継続・停止を決める力は、しばしばサブミッシブの側のセーフワードに集約される。
責任ある実践共同体が共有する基本プロトコルとして、SSC(Safe, Sane, Consensual: 安全・正気・合意)、ならびに RACK(Risk-Aware Consensual Kink: リスク認知の上での合意)が広く知られる。これらは 20 世紀末の英語圏 BDSM コミュニティで定式化され、日本の SM コミュニティにも波及した倫理的指針である。
実践の領域は、軽度のスパンキング・拘束プレイから、緊縛・蝋燭・電気プレイなど高度な技法まで広範に及ぶ。すべての実践に共通する要件として、参加者の身体的・心理的安全への配慮、健康状態の継続的観察、緊急時の即時停止可能性、プレイ後の心身回復のための時間(アフターケア)の確保が挙げられる。
語源
「サディズム」は、フランスの作家マルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740–1814)の名前に由来する造語である。サドの作品群が、他者への加虐を主題とする文学として悪名を博したことから、19 世紀後半の精神医学者リヒャルト・フォン・クラフト=エビング(Richard von Krafft-Ebing, 1840–1902)が著書『性的精神病理学』(Psychopathia Sexualis, 1886 年)において、当該性的傾向を指す医学用語として導入した。
「マゾヒズム」も同書において、オーストリアの作家レオポルト・フォン・ザッヘル=マゾッホ(Leopold von Sacher-Masoch, 1836–1895)の名から命名された。マゾッホの代表作『毛皮を着たヴィーナス』(Venus im Pelz, 1870 年)が、被支配・被虐の快楽を主題とする小説として知られたことに由来する。
両語は当初、精神医学上の倒錯(perversion)概念の一として導入され、長年にわたり病理化の枠組みで論じられてきた。20 世紀後半、当事者コミュニティの自己定義の動きを経て、現在の国際疾病分類(ICD-11、2018 年)・米国精神医学会診断基準(DSM-5、2013 年)では、合意ある成人間の性的活動は精神疾患に該当しないことが明確化された。本人または他者に苦痛・障害をもたらす場合に限り「性嗜好障害」として扱われる立場が確立している。
「SM」という頭文字略語の成立は、20 世紀中盤以降と推定される。日本語圏では戦後 SM 雑誌『奇譚クラブ』等の媒体において、この略語が領域名として一般化した経緯を持つ。
歴史と展開
文学的源流
SM 文化の遠い源流は、近世以降の西洋文学・近世日本の地下文学に求められる。サド、マゾッホをはじめ、19 世紀から 20 世紀にかけてのアルジャーノン・スウィンバーン、ピエール・ルイス、ジョルジュ・バタイユ等の作品群が、苦痛と快楽の重なり合う領域を文学的に探究した。
戦後日本における定着
日本における SM サブカルチャーの形成は、戦後の出版文化の中で進展した。1947 年創刊の『奇譚クラブ』(曙書房)は、1950 年代以降 SM 専門誌としての性格を確立し、1960 年代を通じて当該領域の中心媒体として機能した。同誌で活躍した作家として、団鬼六(『花と蛇』1962 年)、土路草一らが知られる。
伊藤晴雨(1882–1961)による責め絵の作品群は、戦前から戦後にかけての日本 SM 美学の視覚的基礎を形成した。捕縄術の縄目を性的・美学的主題に転用するこの仕事は、後の緊縛文化の直接の源流となった。
1970 年代には、日活ロマンポルノにおいて『花と蛇』が映画化(1974 年、谷ナオミ主演)され、SM 表現が一般映画市場に進出する転機となった。1980 年代以降は、ビデオ媒体・成人向け漫画・同人誌等の媒体ごとに固有の SM 表現が発達した。
国際 BDSM サブカルチャーの形成
20 世紀後半の英語圏では、ゲイ・レザーコミュニティおよびフェミニズム第二波の論争を背景に、当事者主導の BDSM コミュニティが形成された。1971 年に設立された米国の The Eulenspiegel Society、1974 年設立の Society of Janus 等が、当事者支援団体として SSC・RACK 等の倫理プロトコルを定式化した。
2010 年代以降、E. L. ジェイムズ『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(Fifty Shades of Grey, 2011 年)の世界的成功により、BDSM 表象がメインストリーム文化に浸透した。同作の表現が責任ある BDSM 実践と乖離する旨の指摘もコミュニティ内で多くなされ、表現の影響を巡る議論を惹起した。
派生領域と現代の用法
役割の細分化
支配する側を表す語として、ドミナント(Dominant, Dom)、トップ(Top)、マスター/ミストレス(Master/Mistress)等が用いられる。服従する側を表す語として、サブミッシブ(submissive, Sub)、ボトム(Bottom)、スレイブ(slave)等が用いられる。
日本語圏では、伝統的に「M男」「M女」「S 男」「S 女」の四象限的呼称が広く流通する。両者の組み合わせにおいて、「M男 × S女」のペアリングは、女性主導の支配関係を主題とする一群として、独自のM性感風俗ジャンルを派生させている。
隣接ジャンル
SM 文化と隣接する領域として、拘束、調教、監禁、フェティッシュ全般(革・ラテックス・ストッキング等)が挙げられる。これらは独立した嗜好領域でありながら、SM プロトコル下の実践において複合的に運用される場合が多い。
法的・倫理的境界
合意の有無は SM 実践と暴力犯罪を区別する根本的境界線である。日本においても、合意の限界・身体への重大な傷害・公序良俗との関係をめぐる法学的議論が継続している。責任ある実践共同体は、参加者の身体的安全・精神的尊厳の保護を最優先する原則を共有する。
関連項目
参考文献
- 『Psychopathia Sexualis』 Ferdinand Enke (1886) — サディズム・マゾヒズムの医学用語化の起点
- 『毛皮を着たヴィーナス』 原著 1870 (1870) — マゾヒズムの語源となった作家の代表作
- 『ソドム百二十日』 原著 1785 年執筆 (1785) — サディズムの語源となった作家の代表作
- 『奇譚クラブ』 曙書房 (1947-1975) — 戦後日本 SM 文化の中心媒体
- 『SM の世界』 三笠書房 (1979)
- 『Different Loving』 Villard Books (1993) — 英語圏 BDSM サブカルチャーの民族誌的記述