バイセクシュアル
ある女と恋に落ち、別の時には男と恋に落ちる。あるいは、性別を超えて目の前の人に惹かれる。性的・恋愛的指向の対象を二つの性別に限定しない、しかしどちらか一方への指向に固定しない者がいる。20 世紀後半の英米のセクシュアリティ研究が連続的・流動的概念としての性指向を理論化して以降、こうした当事者を指す独立カテゴリとして「バイセクシュアル」の語が定着した。日本では「両性愛者」の訳語と並行して、英語借用形「バイ」「バイセク」が当事者の自己呼称として広く流通している。
バイセクシュアル(bisexual、略 bi)は、性的・恋愛的指向の対象が両性(典型的には男性と女性の両方)に向く者を指す語である。LGBTQ+ の枠組内で、ゲイ・レズビアン・トランスジェンダーと並ぶ独立カテゴリとして位置づけられる。本項では概念史、英語起源の語史、Klein Sexual Orientation Grid・Kinsey Scale 等の評価枠組、パンセクシュアルとの関係、日本における可視化の歴史を扱う。
概要と用語の整理
「バイセクシュアル」は、ラテン語接頭辞 bi-(2 つの)と sexualis(性に関する)を結合した英語借用語である。日本語訳語として「両性愛者」が当てられるが、英語借用形「バイセクシュアル」「バイ」「バイセク」も並行して広く流通する。本項では英語借用形を主たる呼称とし、文脈に応じて「両性愛者」を併用する。
バイセクシュアルと隣接する概念として、(1) パンセクシュアル(pansexual、性別を問わず指向の対象とする)、(2) ポリセクシュアル(polysexual、複数の性別に指向するが全ての性別ではない)、(3) クィア(queer、性的少数者の包括的自己呼称)、等がある。これらの概念は重なり合うが、各語の定義・自己呼称としての使い分けは当事者ごとに異なる。
近年の英語圏当事者運動においては、「バイセクシュアル」を性別二元論に基づく古い概念とする批判から、より包括的な「パンセクシュアル」を採用する当事者が増加している。ただし、バイセクシュアルの当事者団体・研究者からは、「バイ」を性別二元論的に狭く解釈する必要はなく、現代的なバイセクシュアル概念は性別の多様性を包括しうる、との反論も提示されている。
語源
英語 bisexual は、19 世紀後半の生物学・植物学において「両性具有(両性花、雌雄同体)」を指す語として用いられたのが初出である。20 世紀初頭、フロイト精神分析の枠組内で、人間の性的指向の潜在的両性性(universal bisexuality)が理論化され、これを契機に「バイセクシュアル」が性指向を指す語として定着し始めた。
20 世紀半ば以降、Alfred Kinsey の性行動研究(『Sexual Behavior in the Human Male』1948、『Sexual Behavior in the Human Female』1953)が、人間の性指向を 0(完全異性愛)から 6(完全同性愛)までの 7 段階の連続体として概念化したことで、両性愛が異性愛・同性愛と並ぶ独立カテゴリとして再評価される基盤が形成された。
1970 年代以降、米国の同性愛者運動・フェミニズム運動の発展に伴って、当事者の自己呼称としての「バイセクシュアル」が徐々に定着した。Fritz Klein の『The Bisexual Option』(1978)、Klein Sexual Orientation Grid(1980 年代提唱)等は、両性愛を多次元的に評価する枠組を提示し、当事者運動の理論的基盤となった。
歴史
国際的概念史
バイセクシュアル運動の組織化は、1980 年代の米国で進展した。1983 年の「BiPOL」(米国初のバイセクシュアル政治団体)設立、1990 年の第一回 International Bisexual Conference 開催、1999 年の Celebrate Bisexuality Day(9 月 23 日)制定等を経て、独立した運動として確立した。
英語圏当事者運動史の中で、バイセクシュアル当事者は「LGBTQ+」の枠組の中で独立した位置を確保する一方、(1) ゲイ・レズビアン運動からの「バイは異性愛特権を享受している」との批判、(2) 異性愛社会からの「単に節操のない異性愛者」「同性愛者の隠れ蓑」等の偏見、を二重に受ける困難を経験してきた。「バイセクシュアル消去」(bisexual erasure)と呼ばれるこの現象は、当事者団体・研究者からの継続的批判の対象となっている。
日本における可視化
日本における「バイセクシュアル」概念の本格的導入は、1990 年代後半以降の英語圏 LGBTQ+ 運動の流入を通じて進展した。1990 年代以前は、両性愛的傾向を持つ当事者が「ゲイ」「レズビアン」「ノンケ」等の既存カテゴリに収まらない「中間的」存在として、独立した呼称を欠いた状態に置かれていた。
雑誌『薔薇族』(1971-2008)『さぶ』(1974-2002)等のゲイ向け商業誌は、両性愛的傾向を持つ読者の投稿・体験記を継続的に掲載し、潜在的な当事者コミュニティの存在を示唆していた。明示的な「バイセクシュアル」自己呼称が当事者間で広まったのは、英語圏当事者運動の影響を受けた 1990 年代後半以降である。
2000 年代以降、英語圏のバイセクシュアル運動・LGBTQ+ 運動の可視化に伴い、日本でも当事者団体・自助グループ(「BiTOPIA」「BNet 関東」等)が組織化された。これら団体は、(1) 当事者の交流・相互支援、(2) 可視化を求める社会発信、(3) LGBTQ+ 全体の運動への参加、を活動の柱としている。
同性パートナーシップ制度・LGBT 理解増進法
2015 年以降の自治体レベルの同性パートナーシップ制度の広がり(2024 年 6 月時点で 459 自治体、人口カバー率 85% 超)、2023 年 6 月の LGBT 理解増進法成立は、バイセクシュアル当事者を含む LGBTQ+ 全体の社会的可視化を制度的に促進する効果を持った。
ただし、これら制度の運用において「バイセクシュアル」が独立した属性として明示的に位置づけられることは少なく、「LGBTQ+」「性的少数者」の包括カテゴリの中で言及されるに留まる場合が多い。バイセクシュアル特有の社会的困難(両性愛者として可視化される機会の少なさ、コミュニティ帰属の二重性等)への政策的対応は、現状では限定的である。
評価枠組
Kinsey Scale
Alfred Kinsey による Kinsey Scale(1948)は、性指向を 7 段階の連続体として測定する古典的枠組である。
- 0: 完全に異性愛的
- 1: 主として異性愛的、たまに同性愛的経験
- 2: 主として異性愛的、時に同性愛的経験
- 3: 同程度に両性愛的
- 4: 主として同性愛的、時に異性愛的経験
- 5: 主として同性愛的、たまに異性愛的経験
- 6: 完全に同性愛的
- X: 性的指向なし(無性愛)
Kinsey Scale の枠組では、3 を中心とする両性愛が独立カテゴリとして可視化され、それまでの異性愛 ⇄ 同性愛の二元論を超える概念整理が可能となった。
Klein Sexual Orientation Grid
Fritz Klein の Klein Sexual Orientation Grid(1980 年代提唱、KSOG)は、性指向をより多次元的に評価する枠組である。同枠組では、性指向を (1) 性的魅力、(2) 性的行動、(3) 性的幻想、(4) 感情的選好、(5) 社会的選好、(6) 自己アイデンティティ、(7) ライフスタイル、の 7 軸で、各軸を過去・現在・理想の 3 時点で評価する。
KSOG の枠組では、ある軸では同性に、別の軸では異性に、さらに別の軸では両性に指向する複雑な実態が記述可能となる。両性愛を一律的「中間的」状態として扱うのではなく、多様な軸の組み合わせとして理解する基盤を提供した。
現代の理解
近年のセクシュアリティ研究では、性指向を固定的・排他的カテゴリではなく、流動的・連続的・多次元的なものとして理解する枠組が主流となっている。バイセクシュアルは、これら流動的・連続的な性指向の中の一つの自己アイデンティティ・自己呼称として位置づけられる。
バイセクシュアルとパンセクシュアル
概念上の関係
「バイセクシュアル」と「パンセクシュアル」(pansexual、性別を問わず指向の対象とする)の関係は、当事者運動内部でも論争的である。
伝統的定義では、バイセクシュアルは「2 つの性別(男性・女性)」に指向する者を指し、パンセクシュアルは「全ての性別(男性・女性・ノンバイナリー・トランスジェンダー等)」に指向する者を指す、として両者を区別する。この定義に立つと、パンセクシュアルはバイセクシュアルより包括的な概念となる。
一方、現代のバイセクシュアル運動は、「バイ」の bi-(2 つの)を「自分と同じ性別」「自分と異なる性別」の 2 軸を指すものと再解釈し、性別二元論に依存しない包括的概念としてバイセクシュアルを定義し直す立場を取る。この立場では、バイセクシュアルとパンセクシュアルは事実上重なり合う概念となる。
当事者の自己選択
両概念のいずれを自己呼称として用いるかは、当事者ごとの自由選択に委ねられる。年代別の傾向としては、若年世代(2000 年代以降に当事者意識を持った世代)は「パンセクシュアル」を、年長世代(1980-1990 年代に当事者意識を持った世代)は「バイセクシュアル」を、それぞれ選好する傾向があるとされる要出典。
両概念の選択は、(1) 性別二元論への自己の関係、(2) 既存当事者運動への帰属感、(3) 用語の歴史的・政治的含意、等の複数要因によって規定される。本項は両概念を相互排他的なものとして扱わず、当事者の自己呼称選択の多様性を尊重する立場から記述する。
当事者の社会的位置
バイセクシュアル消去
バイセクシュアル当事者が経験する社会的困難の中核として、「バイセクシュアル消去」(bisexual erasure)と呼ばれる現象がある。これは、両性愛的当事者が(1) 異性のパートナーとの関係期間中は「異性愛者」と見なされ、(2) 同性のパートナーとの関係期間中は「ゲイ」「レズビアン」と見なされ、いずれの関係中も「バイセクシュアル」としての自己アイデンティティが社会的に可視化されない状況を指す。
この消去は、当事者の自己アイデンティティの社会的承認を妨げ、コミュニティ帰属感の二重的不安定性を生む構造的要因となっている。米国・欧州・日本のいずれにおいても、バイセクシュアル当事者の心理的健康指標(うつ・不安・自殺念慮等)が、ゲイ・レズビアン当事者と比較しても悪化する傾向が複数の研究で報告されている。
コミュニティ帰属の二重性
バイセクシュアル当事者は、(1) 異性愛コミュニティ内では性的少数者として、(2) 同性愛コミュニティ内では「異性愛特権を持つ者」として、それぞれ周縁的に位置づけられる場合が多い。この二重的周縁性は、当事者の社会的所属感を不安定にする要因となる。
近年は、米国・欧州・日本のいずれにおいても、バイセクシュアル独自の当事者団体・自助グループ・コミュニティスペースが組織化され、二重的周縁性に対する独自の支援体制が構築されつつある。
文化的言及
文学・映画
バイセクシュアル当事者を主題とする文学・映画作品は、20 世紀後半以降に蓄積されている。米国の Rita Mae Brown『Rubyfruit Jungle』(1973)、Audre Lorde の自伝的著作群、英国の Virginia Woolf『Orlando』(1928)等は、両性愛的当事者の経験を主題化した古典的作品として位置づけられる。
映画の領域では、『Brokeback Mountain』(2005)『Carol』(2015)『Call Me by Your Name』(2017)等、両性愛的経験を主題とする作品が国際的に評価されている。日本の漫画・小説・映画では、両性愛的キャラクターを明示的に主題化する作品は依然として限定的だが、近年は徐々に増加傾向にある。
学術的研究
クィア・スタディーズ・ジェンダー論の領域では、バイセクシュアルを主題とする研究蓄積が進んでいる。Steven Angelides『A History of Bisexuality』(2001)、Fritz Klein『The Bisexual Option』(1978)等は、英語圏のバイセクシュアル研究の代表的著作である。日本国内では、菊地夏野・堀江有里・飯野由里子編『クィア・スタディーズをひらく』(2019)等が、当事者の経験を含む包括的研究を提示している。
倫理的留意
本項は、バイセクシュアル当事者を性的客体化する記述ではなく、社会的・歴史的・文化的事象として記述するものである。バイセクシュアルが「節操のない」「優柔不断な」当事者として揶揄的に扱われる場面への配慮、当事者の自己アイデンティティの多様性への尊重、両性愛者消去現象への問題意識、を記述上の原則とする。
成人向け作品の領域では、「バイ」が単なる性的嗜好の表現として消費される側面があるが、本項はそうした商業的描写と当事者の現実とを区別し、当事者の人権・尊厳に十分な配慮をもって記述する。
関連項目
参考文献
- 『Queer Japan from the Pacific War to the Internet Age』 Rowman & Littlefield (2005)
- 『クィア・スタディーズをひらく』 晃洋書房 (2019)
- 『性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律』 法律 第68号 (2023) https://laws.e-gov.go.jp/law/505AC1000000068
- 『Sexual Behavior in the Human Male』 W.B. Saunders (1948) — Kinsey Scale の原典
- 『The Bisexual Option』 Routledge (1978)
別名
- バイセクシュアル
- bisexual
- bi
- バイ
- 両性愛者
- パンセクシュアル