茶屋の二階の襖が開き、白く塗った顔・引き締めた口紅・黒く結い上げた島田髷の女が三味線を手に座を進める。客の話に応じて唄を入れ、舞を披露し、座の機微を読みながら酒を注ぐ。「遊女が色を売り、芸妓が芸を売る」。近世日本が制度的に分離した二つの職能のうち、芸の側を継承し現代まで命脈を保った職能類型がこれである。京都の祇園・先斗町・上七軒、東京の新橋・赤坂・浅草、金沢の主計町・ひがし、博多の柳橋・中洲等の花街は、現在も伝統芸能の生きた現場として機能している。
芸妓(げいぎ、げいこ、英: geisha)は、宴席で歌舞音曲の芸を披露することを業とする女性の職能類型である。語は「芸を以て妓(わざおぎ)とする者」、すなわち芸を職能とする女性の意で、近世以降の花街において遊女と制度的に区別された専門職として発達した。本項では遊女との制度的区別、地域別の体系、修業階梯、近代以降の変遷を扱う。
概要
芸妓は、近世中期(18 世紀前半)に遊女から制度的に分化した職能である。原則として性的奉仕を業の一部としない点で、遊廓における遊女・太夫・花魁と区別される。三味線・長唄・端唄・小唄・舞踊・茶道・華道・書道等の伝統芸能を修練し、お茶屋(料亭・茶屋)の宴席で客の接待を行うことを職能の中核とした。
職業上の呼称は地域差がある。京都・大阪では「芸妓(げいこ)」、修業中の若手を「舞妓(まいこ)」と呼ぶ。東京では「芸者(げいしゃ)」、若手を「半玉(はんぎょく)」「雛妓(おしゃく)」と呼ぶ。本項は職能類型としての総称を「芸妓」とし、地域差は適宜記述する。英語圏には geisha の語が定着しており、20 世紀以降の海外への文化発信を経て国際的に認知された語である。
語源と関連語
「芸妓」の「妓」は、中国古典において歌舞音曲を業とする女性を指した語である。日本古代の「遊行女婦(うかれめ)」は神事芸能と性的奉仕を兼ねていたが、近世における職能分化を経て、芸の側を職能とする者が「芸妓」「芸者」、性の側を職能とする者が「遊女」「娼妓」と区別されるに至った。
「芸者」の語は、もともと男女両性を指した。寛保年間(1741-44)の江戸では、宴席で芸を披露する男性「幇間(ほうかん、太鼓持ち)」も「男芸者」と呼ばれた。女性が増えるにつれて「芸者」が女性専用の語となり、男性は「幇間」「太鼓持ち」と呼び分けられるようになった。
京都での「芸妓(げいこ)」は、「芸を以て生計を立てる子(者)」の意とされる。修業中の若手を指す「舞妓(まいこ)」は、「舞を業とする子(者)」の意である。
歴史
前史: 遊女と芸の分離
近世初期、遊女は性的奉仕と芸能の双方を兼ねた職能であった。京都・島原の太夫、江戸・吉原の太夫・花魁はいずれも、和歌・連歌・俳諧・茶・華・三味線・舞踊等の高度な教養を備えた。これら最高位の遊女は、性と芸の双方の頂点を担った。
しかし 18 世紀に入り、廓の経済構造の変化と顧客層の重心移動に伴い、芸事の専門化が進行した。江戸では宝暦年間(1751-64)頃から、宴席で三味線・歌舞を専業とする女性が「芸者」として登場した。京都では明和年間(1764-72)頃から、お茶屋に芸を披露する女性が「芸妓」として独立した職能を成すに至った。
江戸期の確立
江戸期半ば以降、芸妓は遊女と制度的に区別される独立した職能として確立した。芸妓は花街(かがい・はなまち)と呼ばれる地区で、置屋(おきや)に所属し、お茶屋に派遣される形式を取った。料金の徴収は「見番(けんばん)」と呼ばれる組合組織が一括管理し、芸妓・置屋・お茶屋の三者間の取引を仲介した。
「芸は売るが体は売らぬ」という芸妓の職業倫理は、この時期に職能規範として定着した。実際には、江戸後期から明治期にかけて「不見転(みずてん)芸者」と呼ばれる、性的奉仕も行う芸妓が並存しており、純粋な芸能職としての建前と現実との乖離は近代を通じて存続した。それでも制度的・名目的な区別は維持され、芸妓は遊女・娼妓とは別の業態として法制度上扱われた。
明治期の変容
1872 年(明治 5)の芸娼妓解放令以降、芸妓は「芸妓鑑札」を所持する独立営業者として再編成された。各府県の芸妓取締規則が制定され、見番組織を通じた料金管理・身許確認・健康管理等の制度的枠組が整備された。
明治・大正期の花街は、政界・財界・文人の社交場として機能した。伊藤博文・西園寺公望・桂太郎らの政治家、福沢諭吉・坪内逍遥らの文人、岩崎弥太郎・大倉喜八郎らの財界人が、新橋・柳橋・赤坂等の花街を頻繁に利用したことが回想録・伝記資料に記録されている。芸妓と政財界人の間には、単なる接待関係を超えた長期的関係が形成されることもあり、複数の元芸妓が政治家・財界人の妻・愛人として近代史に登場している。
戦後の縮小と現代の継承
太平洋戦争中、戦時統制経済下で多くの花街が一時閉鎖された。戦後の経済復興期に再開したが、1958 年の売春防止法完全施行、1960 年代以降の接待文化の変容(料亭からキャバクラ・クラブへの移行)、1980 年代後半からのバブル景気とその崩壊、2010 年代以降の宴会文化の縮小等を経て、芸妓人口は大幅に減少した。
最盛期の昭和初期には全国で 8 万人を超えた芸妓人口は、2020 年代には 1 千人程度にまで縮小したと推定される要出典。それでも京都・東京・金沢・博多等の主要花街では伝統芸能継承者として活動が継続しており、ユネスコ無形文化遺産・地方文化財等の枠組による保護も検討・実施されている。
地域別の体系
京都の五花街
京都には「五花街(ごかがい)」と呼ばれる伝統的花街区分があり、(1) 祇園甲部、(2) 祇園東、(3) 先斗町(ぽんとちょう)、(4) 宮川町、(5) 上七軒(かみしちけん)が含まれる。一時期「島原」も加えて六花街と称することもあったが、島原は遊郭の系譜を引く別格地区として現在は別枠扱いとなる。
京都の芸妓・舞妓は、独自の修業体系・装束体系・芸事体系を有し、現代日本における伝統芸能継承の中核的拠点となっている。「都をどり」(祇園甲部、4 月)、「京おどり」(宮川町、4 月)、「鴨川をどり」(先斗町、5 月)、「祇園をどり」(祇園東、11 月)、「北野をどり」(上七軒、3-4 月)等の年中行事は、芸妓・舞妓の芸を一般公開する場として機能している。
東京の六花街
東京には「東京六花街」と呼ばれる伝統的花街区分があり、(1) 新橋、(2) 赤坂、(3) 神楽坂、(4) 浅草、(5) 芳町(にんぎょうちょう)、(6) 向島が含まれる。明治・大正期には政財界の社交の中心であり、新橋は政治家、赤坂は財界人、神楽坂は文人、芳町は花柳界文化の中核として、それぞれ固有の客層を擁した。
「東をどり」(新橋、5 月)、「赤坂をどり」(赤坂、3-4 月)等の公演会は、芸妓の芸の年次披露の場として機能している。
地方の花街
金沢のひがし茶屋街・主計町(かずえまち)・にし茶屋街、博多の柳橋・中洲、新潟の古町、富山の桜町、加賀温泉郷の山中・山代、大分の別府、長崎の丸山等、地方都市にも伝統的花街が継承されている。地方花街は、地元伝統芸能(博多どんたく・佐渡おけさ・能登キリコ等)との接続を持つ場合もあり、地域文化継承の場として位置づけられる。
修業階梯
京都の芸妓・舞妓を例とした典型的修業階梯は次の通りである。15 歳前後で置屋に入り「仕込みさん」として住込み、家事・行儀作法・京言葉・舞踊・三味線・茶道・華道等の基礎修業を 1 年程度受ける。その後「見習い」として先輩芸妓に同行する短期間を経て、「店出し」(初お目見え)の儀式を行い、「舞妓」となる。
舞妓は通常 15-20 歳の若手で、振袖の着物・だらりの帯・花簪・桃割れ等の独特の髪型を伴う、若い芸妓の様式美の象徴となる。20 歳前後で「衿替え」(襟替え)の儀式を経て、舞妓から芸妓(「芸子」)へと昇格する。芸妓は留袖・お太鼓結び・島田髷等の様式となり、年齢に応じて大人びた装束に転換する。
東京の芸者・半玉も類似の階梯を取るが、京都ほど厳格な様式区分は持たず、衿替え以前を「半玉」「雛妓(おしゃく)」、以後を「芸者」と呼び分ける。地域ごとの様式差はあれ、置屋・見番制度を通じた組合的経営、お茶屋に派遣される稼業形態、修業階梯による階層化、等の基本構造は共通する。
遊女との関係
近世以降の制度上、芸妓は遊女・娼妓と区別される独立した職能類型である。芸妓は「芸を売り、色を売らず」を建前とし、性的奉仕を業の一部としない。これに対し遊女は性的奉仕を業の中核とし、芸事は補完的位置づけを取る。
ただし両者の区別は、近代を通じて完全には明確化しなかった。江戸期の「不見転芸者」、明治期の「半玉芸者」「半二輪」等の呼称は、芸妓と遊女の中間的形態を指した。1900 年(明治 33)の娼妓取締規則・芸妓取締規則は両者を法制度上区別したが、実態としては芸妓と客との間に長期的・私的な関係(「旦那」関係)が形成されることがあり、必ずしも建前通りに運用されていなかった。
現代の花街では、芸妓と客との関係は厳格に職業的・芸能的なものに限定される。お茶屋の宴席における芸の披露と座持ちが芸妓の職能であり、性的接触は職業外の私的領域として位置づけられる。
文化的影響
浮世絵と文学
浮世絵においては、芸妓は遊女とは別の人物類型として描かれた。喜多川歌麿「青楼仁和嘉女芸者部」、歌川広重「江戸名所百景」中の芸者図、月岡芳年「風俗三十二相」等は、芸妓・芸者の職業的様式を視覚的に記録した。文学領域では、永井荷風『腕くらべ』(1916-17)、長谷川時雨『美人伝』、宮尾登美子『陽暉楼』(1976)等が、近代芸妓の生活と人格を主題化した。
海外への発信
明治末期から大正期にかけて、芸妓は欧米の旅行記・小説に頻繁に登場し、日本の伝統文化の象徴として国際的に認知された。プッチーニのオペラ『蝶々夫人』(1904 年初演)は、長崎の元芸者を主人公とする物語で、芸妓のイメージを欧米に広く流布した(ただし同作品の描写は西洋的オリエンタリズムを多分に含む)。
ライザ・ダルビー『Geisha』(1983)は、文化人類学者が祇園で芸妓として実地修業した記録に基づく民族誌で、英語圏における芸妓研究の代表作として広く読まれている。
現代メディアでの表象
現代メディアにおける芸妓の表象は、伝統文化継承の側面と観光的消費の側面の双方を含む。映画『SAYURI』(Memoirs of a Geisha、2005)、テレビドラマ・ドキュメンタリー番組での祇園・先斗町取材、京都市観光協会等による「舞妓体験」サービス等が並存する。
観光的消費の側面に対しては、当事者(現役芸妓・元芸妓)の側から、(1) 舞妓体験コスプレと現役舞妓の混同、(2) 観光客による盗撮・追従行為、(3) 伝統的修業を経ない「観光芸妓」の登場による職業規範の混乱、等の問題が指摘されている。京都市・地元商工会議所は近年、写真撮影マナーの啓発・観光制限措置等を進めている。
関連項目
参考文献
- 『京都祇園―もうひとつの京都』 ちくま新書 (2007)
- 『芸者―変容する近代日本の職業女性』 プレジデント社 (2009)
- 『Geisha』 University of California Press (1983)
- 『花街の経営学』 東洋経済新報社 (2007)
- 『近世風俗志(守貞謾稿)』 (1837-1853)
別名
- 芸妓
- 芸者
- geisha
- geigi
- 芸子
- 半玉