島原
冬の朱雀野、夜に提灯を連ねた一画があった。揃いの黒紋付の遣手婆と禿に従えられ、八文字を踏みながら揚屋へ向かう女の姿は、京の人々にとって芝居以上の見世物であった。和歌・茶・書・三味線を仕込まれ、太夫と呼ばれた最高位の女たちは、客に身を委ねるよりも先に教養で客を試した。応じない武士は、廓の外の者として静かに退けられた。京都の島原は、性売買の場であると同時に、こうした作法と教養の劇場として 300 年以上機能した。
島原(しまばら、正式名称:西新屋敷)は、1641 年(寛永 18 年)に京都下京の朱雀野(現・京都市下京区西新屋敷町)へ移転・開設された幕府公認の遊廓地区である。江戸の吉原、大坂の新町と並ぶ「三大遊廓」の一つとして数えられ、太夫制度を頂点とする独自の階層構造と、揚屋・置屋・引手茶屋の三業から成る空間構造を備えた。1958 年の売春防止法完全施行をもって遊廓としての営業は終了したが、揚屋であった角屋、置屋であった輪違屋などが現存し、それぞれ国の重要文化財に指定されている。
概要
島原は、京都の遊廓のうち最も格式の高いものとされ、近世の文化人や上層武家の社交の場として機能した。最高位の遊女である太夫は、和歌・書・茶道・能楽・三味線・舞・諸礼に通じることが求められ、単なる性売買の対象としてではなく、京文化の担い手の一人として扱われた。江戸の吉原が太夫制度を 18 世紀後半に廃して花魁制度へ移行したのに対し、島原は終戦期まで太夫の名跡を保ち、現代にも輪違屋が太夫の伝統を残す。
地区名「島原」は俗称であり、寛永の移転騒動が島原の乱(1637-38)直後の混乱を想起させたために付けられたとする説が広く流布する。正式名称は「西新屋敷」であり、近世の公文書ではこの名で呼ばれる場合が多い。
前史と移転
二条柳町から六条三筋町へ
京都の遊廓の起源は、1589 年(天正 17 年)、豊臣秀吉が原三郎左衛門に命じて二条柳馬場に開かせた柳町の遊女町に遡る。柳町は秀吉政権下における初の公許遊女町であり、近世の廓制度の原型を成した。慶長年間(1596-1615)に至り、徳川政権の京都都市整備の一環として、柳町は六条坊門(現在の東本願寺の北側)へ移転を命じられ、六条三筋町と呼ばれる新たな遊廓地区が形成された。
六条三筋町期は、京の遊廓文化が最も華やかに展開した時代の一つである。慶長年間の四条河原で女歌舞伎の興行が行われた際、優れた踊り手の女性に「太夫」の称号を与えたのが、後の遊廓における太夫制度の起源とされる。歌舞伎の創始者出雲阿国の系譜と、六条三筋町の傾城は、初期段階で深く関わっていた。
寛永 18 年の移転と「島原」の俗称
1640 年(寛永 17 年)、徳川家光治下の京都所司代板倉重宗は、市街地の拡大に伴う風紀問題と、東本願寺隣接という立地への配慮から、六条三筋町の遊廓に対し市街西方の朱雀野への移転を命じた。翌 1641 年に移転が実施され、新たな地区は正式に「西新屋敷」と称された。
移転は急な命令であったため、引っ越しの混乱は京の市中で大きな話題となった。同時期、九州で島原の乱(1637-38)後の動揺が記憶に新しく、移転の混乱を島原の乱になぞらえて「あの島原みたいな騒動だ」と京の町人が揶揄したことから、地区そのものが「島原」と呼ばれるようになった、というのが通説である要出典。なお異説として、堀と土塁で囲まれた地区の地形が島原城下に似ていたためとする説もあるが、近世の地誌では前者の俗称起源説が広く採られる。
空間構造
大門と環濠
島原は東西約 200 メートル、南北約 300 メートルの矩形をなし、周囲を高さ約 3 メートルの土塁と堀で囲まれていた。出入口は東側の大門のみで、ここを通らなければ廓内への出入りは原則として認められなかった。大門は江戸吉原の大門と同様の構造を持ち、廓内の女たちの逃亡防止と、廓外からの不審者の侵入防止という二重の機能を果たした。
廓内は揚屋町、中堂寺町、太夫町、上之町、下之町などの町割りに分割され、それぞれに置屋・揚屋・引手茶屋が配されていた。
三業の構造
島原の営業形態は、三種の業態の連携によって成立していた。第一は置屋で、太夫・天神・鹿恋などの遊女を抱え、教育・養成・派遣を担う家である。輪違屋は現存する唯一の置屋であり、その内部には太夫の道具・遺品が今も保管されている。
第二は揚屋で、客は揚屋に上がり、料理と酒を整え、置屋から太夫を呼び寄せて宴席を開いた。揚屋自体は遊女を抱えず、宴席の場と料理の提供のみを業とした。角屋は江戸期の揚屋建築の唯一の現存例であり、1952 年に重要文化財に指定された。
第三は引手茶屋で、客と置屋・揚屋を仲介する手配業として機能した。客は直接置屋に出向くのではなく、まず引手茶屋で予約と作法の指南を受け、しかるのちに揚屋へ向かうのが正規の手順とされた。
太夫制度
太夫の階層と教養
島原における遊女の最高位を「太夫」と呼び、その下に天神、鹿恋、囲などの階層が連なった。太夫は単に容姿や技芸に秀でているだけでは到達できず、和歌・連歌・俳諧・茶道・香道・書・絵・能楽・三味線・小唄・舞・将棋・諸礼に至るまで、京の上層文化のほぼ全領域に通じることが要求された。文盲では太夫になれず、和歌の即興が苦手でも太夫になれなかった。
最高位太夫は禁裏(皇室)に参上することを許される唯一の遊女階層であり、「正五位」という官位相当の格式を与えられた。これは江戸吉原の花魁が町人文化の頂点として機能したのとは対照的に、島原の太夫が公家文化との接続点として位置づけられたことを示す。
太夫道中
太夫が揚屋に出向く際の行列を「太夫道中」と呼んだ。先導の禿(かむろ)、振袖新造、傘持ち、遣手婆を従え、太夫自身は黒髪を高く結い上げ、重さ十数キロにも及ぶ衣装と帯を身につけ、下駄の歯を交差させる「内八文字」の歩み方で進んだ。この歩き方は江戸吉原の花魁道中の「外八文字」とは対照的で、京文化の優美さを象徴する所作とされた。
太夫道中は廓内のみで行われる小規模な行列であったが、京の町人にとって正月や祇園会と並ぶ年中行事の一つであり、見物のために多くの庶民が大門外に集まった。
客と作法
太夫を揚げるには、揚代金のほかに祝儀・心付け・三業の使用料が必要で、合計で当時の上層町人一年分の生計に匹敵する金額が要された。さらに、初会・裏・馴染みの三段階を経なければ太夫と関係を結ぶことはできず、初会では言葉も交わさず、裏で初めて会話が許され、馴染みになって初めて床入りが可能であった。
太夫には客を選ぶ権利が認められ、人格・教養・作法に難がある客は、たとえ大金を積んでも拒絶された。これは江戸吉原の花魁にも同様に存在した「振り」の権利であり、近世遊廓の制度的特徴である。
衰退と存続
江戸期後半の衰退
18 世紀後半以降、京都の遊廓文化の中心は徐々に祇園・先斗町などの花街へと移動し、島原は次第に活力を失った。祇園・先斗町は太夫制度を持たず、芸妓・舞妓を中核とする「お茶屋遊び」の形式を発達させ、より気軽な社交の場として町人層の支持を集めた。一方の島原は、高額な揚代と煩瑣な作法ゆえに、限られた上層客のみを相手とする閉鎖的な空間となり、客足は細り続けた。
文化年間(1804-1818)以降、島原の太夫数は最盛期の数十名から十名前後にまで減少し、幕末には数名を数えるに至った。
幕末の島原と勤王志士
幕末期、島原は新選組や勤王志士の集会の場としても利用された。新選組副長の土方歳三、近藤勇らが角屋で宴会を行ったことが記録に残っており、角屋の刀傷も新選組関連の伝承として知られる。長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、薩摩藩の西郷隆盛らも島原で密談を行ったとされ、幕末政治史において島原は隠れた舞台の一つであった。
明治以降と公娼制度下の島原
明治維新後、1872 年(明治 5 年)の芸娼妓解放令と、その後の貸座敷規則・娼妓取締規則(1900)の整備により、島原は近代公娼制度下の指定地区として再編された。太夫の制度は形式上残されたが、明治後半以降、太夫を抱える置屋は輪違屋ほぼ一軒のみとなり、実質的な衰退は決定的となった。
大正・昭和初期にかけて、島原は祇園・先斗町に対する「古い」「格式ばった」花街として、観光的・回顧的な扱いを受けることが多くなった。1958 年の売春防止法完全施行をもって、島原は遊廓としての営業を法的に終了した。
文化的影響
浮世絵・春画
島原は江戸期を通じて、京都派の浮世絵・春画の主要な題材であった。鈴木春信、勝川春章、円山応挙、与謝蕪村などの京の絵師が島原の太夫像を描き、上方の絵画文化に独自の貢献をした。江戸吉原を題材とした浮世絵に比べると点数は少ないが、京の風雅と接続する画題として、上方画壇では珍重された。
文学
井原西鶴『好色一代男』(1682)では、主人公世之介が島原を訪れ太夫吉野と関係を結ぶ場面があり、近世初期文学において島原は理想の遊廓として描かれた。近松門左衛門の浄瑠璃にも島原を舞台とする作品が複数あり、上方文芸において島原は不可欠な背景として定着した。
服飾
太夫の衣装は、現代のいわゆる「花魁衣装」とは別系統で、より公家文化に近い様式を保った。重ね襟、緋の長襦袢、金襴の打掛、高く結い上げた日本髪に櫛笄(くしこうがい)を多用するスタイルは、京の伝統工芸(西陣織・京友禅・京蒔絵)の高級需要を支えた。
現代への継承
角屋・輪違屋
島原に現存する近世遊廓建築は、揚屋の角屋と置屋の輪違屋の二棟である。角屋は 1952 年、輪違屋は 1984 年にそれぞれ国の重要文化財に指定された。角屋は現在「角屋もてなしの文化美術館」として公開されており、揚屋建築・調度・関連美術資料を観覧できる。輪違屋は太夫の継承を続ける唯一の場として、現役の建物のまま現代まで残っている。
太夫の継承
島原の太夫は、性売買とは切り離された無形の文化的存在として、現代まで継承されている。輪違屋を中心に数名の太夫が活動し、太夫道中の再現、舞・三味線の上演、京の文化財の場での披露を行っている。これは近世の太夫制度そのものではなく、戦後に再構築された伝統芸能としての太夫であるが、京の文化史を体現する存在として、観光・文化保護の両面で評価を受ける。
島原大門
東側の大門は近世の遺構として現存し、京都市の指定史跡となっている。江戸吉原の大門が現存しないのに対し、島原の大門は現役のままその位置に残り、廓の境界を可視化する数少ない文化財の一つである。
文化史的意義
島原は、近世日本の遊廓制度のうち、京文化との結合度が最も高かった事例である。江戸吉原が町人文化の頂点として機能したのに対し、島原は公家・上層武家の文化と接続し、和歌・茶・能楽・諸礼の伝統を内に取り込む形で発達した。同時に、最盛期から衰退期に至る過程は、上方文化全体の重心移動(祇園・先斗町への移動)を象徴する事例でもある。
近年の地域史・女性史研究は、島原を文化史的称揚の対象としてのみ扱うことの危険性を指摘している。太夫の高い社会的地位は廓内の少数者にのみ与えられたものであり、その下層に位置した天神・鹿恋・囲の女性たち、さらには私娼化を強いられた者たちの存在を、併記することが求められる。本項においても、文化史的意義と人権上の問題の双方を併記する立場を採る。
関連項目
参考文献
- 『三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大坂新町』 幻冬舎新書 (2014)
- 『島原(京都)』 Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F_(%E4%BA%AC%E9%83%BD)
- 『京の花街 - 島原』 京都観光オフィシャルサイト 京都観光Navi https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=292
- 『近世風俗志(守貞謾稿)』 (1837-1853)
- 『売春防止法』 法律 第118号 (1956)
別名
- 西新屋敷
- 京都島原
- Shimabara