鴨川の西岸、五条大橋を南へ下りたあたり、二階の窓に格子をはめた細長い町家が連なる一画がある。古い瓦と煤けた木の壁が時代の層を露出させ、玄関先に「お茶屋」と書かれた小さな札が今も残る家がある。観光客が祇園や先斗町を目指して通過してしまう、京都の南の端で、戦後最後まで営業を続けた遊廓街がある。それが五条楽園である。
五条楽園(ごじょうらくえん)は、京都市下京区の鴨川西岸、五条大橋から七条にかけての一帯にあった旧遊廓・赤線地区である。江戸期の五条新地、六条新地、七条新地を起源とし、大正期に統合され「七条新地」と通称された。1958 年(昭和 33 年)の売春防止法完全施行を受けて「五条楽園」と改称し、芸妓を前面に出した花街として再編された。2010 年(平成 22 年)10 月の京都府警による摘発を経て、翌年の組合解散をもって、京都最後の準遊廓地区としての歴史を閉じた。
概要
五条楽園は、京都市内に存在した複数の遊廓・花街のうち、最も新しく成立し、最も遅くまで営業を続けた地区である。京都の伝統的花街(祇園甲部・祇園東・宮川町・上七軒・先斗町)と並ぶ「京の六花街」として数えられる時期もあったが、性売買との結びつきが強かったため、伝統花街の連合体には正式に加入していない時期も長く、京都の花街文化の中で独自の位置を占めた。
地区名「五条楽園」は戦後の改称であり、江戸期および戦前は「七条新地」と呼ばれていた。鴨川と高瀬川に挟まれた水運の便のよい立地は、江戸期以来の物流拠点としての性格と結びつき、宿場的・歓楽街的機能の双方を併せ持っていた。
前史と成立
江戸期の三新地
五条楽園の直接の起源は、江戸期に成立した五条新地・六条新地・七条新地という三つの隣接遊廓である。京都所司代が公認した島原に対し、三新地は「岡場所」(非公認の遊里)として始まり、次第に黙認的な性格を帯びていった。
五条新地は五条橋下、六条新地はその南、七条新地はさらに南の七条通に近い区画にあり、それぞれ独立した遊里として営業した。江戸期後半の文化・文政期(1804-1830)以降、京都の伝統的花街(祇園・先斗町・宮川町)が興隆するに伴い、三新地は「庶民向けの安価な遊里」として位置づけられ、上層文化の拠点である島原とは異なる客層を受け入れた。
大正期の統合
明治維新後、芸娼妓解放令(1872)と娼妓取締規則(1900)の整備により、三新地は公娼制度下の指定地区として再編された。大正期(1912-1926)に至り、行政上の整理と業態の合理化を経て、三新地は実質的に統合され、「七条新地」の名称で総称されるようになった。
統合後の七条新地は、芸妓と娼妓が同一区域内に混在する花街として営業した。芸妓は伝統芸能(舞・三味線・小唄)を提供する芸の専門職、娼妓は性売買を業とする職能、両者は形式上区別されつつ、同じお茶屋・置屋に所属することも多かった。この曖昧な構造は、戦後の業態転換において重要な伏線となる。
戦後の変容
赤線と「五条楽園」への改称
1946 年(昭和 21 年)の公娼制度廃止、1947 年の特殊飲食店指定(俗称・赤線)を経て、七条新地は赤線地区として戦後を歩んだ。1958 年の売春防止法完全施行にあたり、地区は「七条新地」の名を捨て、新たに「五条楽園」と改称した。
改称の背景には、売春防止法の制約下で、性売買を表向きには行わない「芸妓を前面に出した花街」として再編する意図があった。実態としては、お茶屋・置屋の業態が形式上は継続し、芸妓に客がつく形で性的サービスが事実上継続されていたとされる要出典。
2010 年までの営業
1960 年代以降、京都の伝統花街(祇園甲部・上七軒など)が観光資源として再評価され、芸妓・舞妓の「文化的価値」が強調される中、五条楽園は性売買との結びつきから観光化の波に乗りきれず、伝統花街連合からは距離を置かれた。一方、地元客・京都府外からの一見客による営業は継続し、2000 年代に至るまで多数のお茶屋・置屋が稼働していた。
最盛期の戦後の五条楽園には数十軒のお茶屋と数百名の芸妓・娼妓が在籍したとされるが、平成期に入ると業界全体の高齢化と後継者不足により、軒数・在籍者数ともに大きく減少した。
2010 年の摘発と解散
2010 年(平成 22 年)10 月 28 日と 11 月 18 日、京都府警はお茶屋と置屋の統括責任者・経営者ら 5 名を売春防止法違反容疑で逮捕した。摘発を受けて、10 月 28 日以降、五条楽園内のお茶屋・置屋は一斉に休業に入り、翌 2011 年 3 月、地区の組合は解散した。これにより、五条楽園は準遊廓地区としての営業を完全に終了し、京都における赤線・遊廓の系譜を引く歓楽街は完全に消滅した。
摘発当時の報道では、地区内で売春行為が組織的に継続されていたこと、芸妓登録名義の女性が実質的に娼妓として稼働していたこと、暴力団関係者の関与が疑われたことなどが指摘された。
街並みと建築
旧遊廓建築の保存
五条楽園内には、江戸末期から大正・昭和初期にかけての遊廓建築が多数現存する。一階の格子窓、二階の出窓、玄関の意匠、階段の配置などに、近世遊里建築の特徴を残すものが多く、観光・建築史的価値が高いとされる。
代表的な現存建築としては、旧お茶屋「本家三友」、旧置屋「銀月アパート」(後にアパートとして転用)、旧お茶屋「梅田」などが挙げられる。これらの一部は、解散後にカフェ・ギャラリー・宿泊施設などへ転用され、街並みの保存と活用が並行して進められている。
観光地化
2010 年代以降、五条楽園は「京都の隠れた旧遊廓街」として、ガイドブック・SNS・観光ブログなどで取り上げられることが増え、若年層の散策・写真撮影の対象として注目を集めるようになった。京都市・地元商店街は、観光客の急増に伴うマナー問題に対し、案内板の整備・撮影マナーの周知などを行っている。
一方、街並みの観光化は、地区がかつて担っていた負の歴史(性売買・人身的拘束)を不可視化する危険性を伴う。地区の歴史を伝えるためには、建築の美しさのみならず、その背景にあった社会的構造を併記する必要が指摘されている。
文化的影響
文学・映画
五条楽園を舞台とする近現代文学・映画は限られているが、戦後京都の風俗を描いた小説・ドキュメンタリーの中で、対比的に登場することがあった。祇園・先斗町の華やかさに対する「もう一つの京都」として、五条楽園・宮川町下の界隈は、戦後京都の都市風景の重要な一部であった。
京都花街論における位置
京都花街研究において、五条楽園の位置づけは長く論争的であった。「六花街」に含めるか否か、芸妓と娼妓の混在をどう扱うか、観光資源化された伝統花街との連続性・断絶性をどう論じるか、といった問題は、京都の都市史・ジェンダー史の重要な論点を構成する。近年の研究では、五条楽園を「もう一つの京都」として正面から扱う動きが進んでいる。
現代との関係
残された建築の活用
解散から十余年を経た現在、五条楽園の旧建築の一部はカフェ・宿泊施設・ギャラリーとして再生されている。京都市の歴史的景観条例の対象地区にも一部が含まれ、建築の保存と活用は地域の重要な課題となっている。一方、後継者のない物件は取り壊しの対象となるケースもあり、地区全体の景観保全は進行中の課題である。
跡地の現状
旧地区の中心部、特に高瀬川沿いの一帯は、解散後にもお茶屋風建築が残されており、観光客の散策ルートの一部として機能している。鴨川の対岸には祇園・宮川町という現役花街があり、五条楽園と対比的な景観を成している。
地区の歴史教育
地元では、五条楽園の歴史を伝える試みが、町内会・地元 NPO・京都市の協力により継続されている。建築見学、講演会、出版などの形で、地区の歴史的意義と問題点の双方を伝える活動が行われている。
文化史的意義
五条楽園は、京都の遊廓・花街史の中で、最も新しく成立し、最も遅くまで営業した地区として、近世から現代に至る性風俗業の連続性と変容を端的に示す事例である。江戸期の島原が公認遊廓、岡場所として始まった五条楽園が黙認的遊里、戦後の改称を経て準伝統花街へと変容、最終的に売春防止法違反で摘発・解散というその経路は、近世から現代に至る日本の公娼制度・私娼・観光化の三層構造を圧縮した形で示す。
地区の歴史を伝えることは、京都の伝統花街文化の理解にも、戦後日本の性売買史の理解にも不可欠であり、近年の研究と地域の取り組みは、この複層的歴史を可視化する試みとして重要である。
関連項目
参考文献
- 『五条楽園』 Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%9D%A1%E6%A5%BD%E5%9C%92
- 『敗戦と赤線―国策売春の時代』 光文社新書 (2009)
- 『売春防止法』 法律 第118号 (1956)
- 『京都府 | 遊廓・遊所研究データベース』 遊廓・遊所研究会 https://yukakustudy.jp/archives/248
別名
- 七条新地
- 五条新地
- 六条新地
- Gojo Rakuen