「童貞」という語は、医学的事実の指示語ではない。それは長い文化史の中で、男性のジェンダー規範・性的成熟の制度的表象・自己アイデンティティの枠組みとして、繰り返し書き換えられてきた記号である。
童貞(どうてい、英: male virgin、virginity の男性形)とは、性交経験のない男性を指す日本語の名詞である。仏教用語の「童貞」(どうてい・どうじょう、僧侶の戒律としての童子の貞操)に起源を持つ古い語であり、近代以降は処女(女性の性交経験のなさを指す語)の対概念として用法が拡大された。中立的な記述語としての用法と、サブカル圏での自虐・俗説を伴う文化記号としての用法が並存する独特の語位を持つ。
概要
童貞という語は、医学的事実の単純な指示語ではない。性交の定義・回数・場面等の解釈次第で、当該語の指示範囲は変動する。一般用法では「異性との挿入を伴う性交を経験していない男性」を指すが、口腔性交・自慰・フェラチオ等の経験の有無については、用法上の解釈が分かれる。
近現代の日本では、童貞は男性のジェンダー規範・性的成熟・社会的位置づけの記号として機能してきた。明治期以降の近代化過程では、男性の性経験は社会的成熟・成人男性としての通過儀礼の一部として位置づけられる傾向があり、童貞は当該規範に未到達の状態を示す消極的記号として用いられた。要出典
一方で、20 世紀後半から 21 世紀にかけてのサブカル圏では、童貞は自虐的・自己同定的な記号として独自の文化空間を形成するに至った。「30 歳魔法使い説」(30 歳まで童貞であれば魔法が使えるようになるという俗説)、「DT」(童貞のローマ字頭文字)等のスラング、童貞いじり・童貞自虐ネタ・童貞論争等の周辺言説が、現代の童貞概念を多層的に形成している。
語源
「童貞」は、古代中国の漢語「童貞」に由来する。本来は仏教文脈で、僧侶の戒律として子供時代からの性的純潔を保つ状態を指す宗教的用語であった。日本語への移入は、古代の仏教伝来と並行して進んだ。要出典
中世から近世にかけては、当該語は宗教的・倫理的文脈で用いられ、日常語としての普及は限定的であった。近代以降の翻訳語・造語運動の中で、ヨーロッパ語の virginity(主に女性の性的純潔の意)の対応概念として、男性の性的純潔を指す用法が拡大された。
「処女」(しょじょ、女性の童貞性)との対比的な用語の対が、近代日本語に成立した経緯は、ジェンダー史研究において詳述されている対象である。社会学者渋谷知美の『童貞の現代史』(2003 年)・『童貞のジェンダー史』(2014 年)等の研究は、この語の近代日本における用法変遷を歴史社会学的に検証している。
歴史
仏教文脈での起源
「童貞」は仏教の戒律語として、僧侶・修行者の性的純潔を指す語であった。仏教戒律の中で、出家者の性的禁欲は中核的規範の一つであり、童子時代からの貞操(童貞)は理想的修行者の状態として位置づけられた。日本の仏教文献では、平安期以降の僧伝・戒律書に当該語の用例が確認される。要出典
近代における意味の拡大
明治期以降の近代化過程では、欧米のジェンダー観・性道徳の翻訳概念として、童貞・処女の対概念の使用が拡大した。初期の用法では、男女ともに婚姻前の貞操を保つことが理想として説かれた。日本のキリスト教受容・西洋的近代倫理の導入と並行して、童貞・処女は近代的家族規範・婚姻前貞操の理想を表現する語として用いられた。
20 世紀前半の日本社会では、男性の性的成熟は遊郭・花柳界等を経由する慣習があり、婚姻前の童貞性は男性側ではあまり重視されない非対称的な性道徳が支配的であった。要出典 戦前・戦中の徴兵制下では、若年男性の性的経験を入営前後に組み込む文化的慣習も観察された。
戦後の童貞論争
戦後の日本では、童貞をめぐる議論が複数の文脈で発生した。1950 年代から 1960 年代にかけては、男性の婚前性交渉の是非をめぐる議論が行われ、童貞は当該議論の中で位置を変えていった。1970 年代以降の性意識の自由化・恋愛結婚の一般化と並行して、童貞は「男性の通過儀礼の遅れ」を示す消極的記号としての位置を強めていった。
1980 年代から 1990 年代にかけて、童貞は若年男性のセルフアイデンティティ・恋愛経験・社会的自信等の言説の中で、しばしばコンプレックスを伴う対象として議論された。当該時期の女性誌・男性誌・自己啓発書等で、童貞をめぐる言説が様々な角度から展開された記録が残されている。
サブカル圏の独自展開
1990 年代後半から 2000 年代以降、童貞は二次元オタク文化・同人誌・インターネット文化等のサブカル圏で、独自の文化記号として再構築された。当該時期の特徴は、童貞性を消極的劣位ではなく、自虐的・自己同定的な記号として再領有する動きである。
「30 歳魔法使い説」は、この時期に成立した俗説である。漫画家・作家・ネット投稿者等による複数の作例を経て、「30 歳まで童貞でいると魔法が使えるようになる」という冗談めかしたミームが拡散した。要出典 当該俗説は、童貞性を超自然的・特別な状態として戯画化する記号反転の試みとして機能し、童貞コンプレックスを文化的ユーモアの素材として外在化する効果を持った。
「DT」(童貞のローマ字頭文字)、「DT 卒業」(初体験を経験した状態)、「童貞拗らせ」(童貞期間の長期化に伴う性意識の特殊化)、「童貞臭」(童貞性が漂う雰囲気の戯画的表現)等の派生スラングが、2000 年代以降のサブカル圏で形成・流通している。
現代の状況
現代では、童貞をめぐる言説は複数の文脈で並列している。第一に、結婚しない若年男性の増加・少子化問題の文脈で、社会学的な分析対象として童貞性が議論される。第二に、サブカル圏では自虐的記号としての童貞性の文化的領有が継続している。第三に、近年は「童貞であることに何の問題もない」とする中立的・尊重的な言説も増加傾向にある。
統計的には、日本の若年男性の性経験率は 1990 年代以降低下傾向にあるとされ、童貞性は社会現象としても言及される対象となっている。要出典
サブカル類型
成人向け表現分野で童貞が組み込まれる類型として、以下の構図が定型化している。
童貞主人公系の物語構成では、性経験のない男性主人公が、痴女・人妻・年上女性キャラクター等から「初体験」を提供される筋立てが頻出する。当該構成は、男性主人公の側に童貞性、女性キャラクターの側に経験豊富な性質を割り当てる役割の非対称性を伴う。寝取り系のフォーマットでは、童貞主人公が経験豊富な女性に手ほどきを受ける筋として展開する。
童貞卒業系の物語構成では、童貞主人公が性経験を獲得する過程そのものを物語の中核とする。当該構成では、童貞性は「卒業」される対象として位置づけられ、卒業前後のキャラクターの心理変化が描写される。
童貞自虐系の物語構成では、童貞主人公の自意識・コンプレックス・社会的孤独等が、コミカル系・シリアス系の各筋立てで描かれる。サブカル圏の自虐文化を反映した近年の頻出類型である。
「童貞いじり」「DT イジリ」等の戯画的演出は、童貞性をユーモアの素材として外在化する文化的処理として、サブカル圏で広く流通する。
派生概念
童貞をめぐる派生概念として、以下の語が並列に流通する。
- DT:童貞のローマ字頭文字略
- 童貞卒業:初体験を経験した状態への変化
- 童貞拗らせ:童貞期間の長期化に伴う性意識の特殊化
- 30 歳魔法使い:30 歳までの童貞性に関する俗説
- 仮性童貞:性風俗等での経験はあるが、恋愛関係上の性経験のない状態を指すスラング
- 童貞ビッチ:多数の異性との交際経験はあるが性経験のない、特殊な状態を指すスラング
- 童貞臭:童貞性が漂う雰囲気の戯画的表現
ジェンダー的非対称性
童貞と処女は、表面的には対称的な対概念に見えるが、社会的扱いには長い歴史的非対称性がある。処女が女性の婚姻適格性・家族の名誉等の文脈で重視される歴史を持つ一方で、童貞は男性の社会的位置づけの中で、消極的・コンプレックス的・自虐的な記号として展開してきた経緯を持つ。
この非対称性は、近代以降の家族制度・性道徳・労働市場における男女の役割分担を反映する文化記号の歴史的構造として、ジェンダー史研究の対象となっている。要出典
関連項目
参考文献
- 『童貞の現代史』 中央公論新社 (2003)
- 『童貞のジェンダー史』 亜紀書房 (2014)
- 『性のタブー』 岩波書店 (1995)
- 『童貞ルネサンス』 二見書房 (2008)
別名
- DT
- virgin male
- male virginity
- 男性童貞