ノンケ
ゲイバーの常連が「あの子、ノンケだから」と笑い、続けて「だから余計いいんじゃない」と返す。日本のゲイカルチャーが半世紀かけて醸成してきた、自分たちと「向こう側」を分かつ独特の語感。
ノンケとは、日本のゲイカルチャー(男性同性愛者文化)において、異性愛者の男性を指す俗語・隠語である。「その気がない」(同性愛志向を持たない)の意の口語的省略形「のけ」が片仮名表記化された語形とされ、戦後日本のゲイコミュニティ内における自他区別の語として定着した経緯を持つ。要出典英語圏の対応語は straight(ストレート)であり、日本語の「ストレート」もゲイカルチャー外では同義で運用されるが、「ノンケ」の語形はゲイコミュニティ・関連サブカル領域における内部言語の性格が強い。本項では成立、運用文脈、サブカル領域における派生について述べる。
概要
「ノンケ」の語形は、ゲイコミュニティ内における自己と他者の区別を立てる語として機能する。当該語の発話者はゲイ(ないしバイセクシュアル・トランスジェンダー等の性的少数者)であることが暗黙の前提となり、「ノンケ」と呼ばれる対象者は当該コミュニティの外部、すなわち異性愛者男性を指す。語の運用文脈は、(1) ゲイバー等のコミュニティ空間における日常会話、(2) ゲイ向け雑誌・書籍・同人誌等の媒体における筆記用語、(3) ゲイ向けインターネット掲示板・SNS における運用、の三類型に大別される。
語感としての特徴は、(a) 中立性と排他性の中間に位置すること、(b) 軽い親しみと一定の距離感を併せ持つこと、(c) 価値判断を直接含まないこと、にある。「異性愛者」という学術的中立語とは異なり、「ノンケ」は内輪言語の性格を持ち、ゲイカルチャー内部での自己同一性確認の機能を担う。同時に、英語圏に存在する breeder(子作り屋、ゲイカルチャー内における異性愛者の蔑称)のような明示的蔑称ではなく、相対的に中立的な語として運用される慣行が定着している。
サブカル領域における当該語の運用は、ゲイ向け同人誌・ゲイ向けアダルトビデオ・ゲイ向け小説等の物語類型として「ノンケ攻略もの」「ノンケ陥落もの」「ノンケ初体験もの」等が独立カテゴリを構成する経緯と関連する。当該物語類型では、異性愛者男性が同性愛経験を経て自身のセクシュアリティに変化を経験する物語装置が運用され、ゲイ向け媒体における主要主題の一を構成している。
語源と成立
「ノンケ」の語源は、口語「その気がない」の省略形「のけ」に英語接頭辞 non- の連想が重ねられた造語と解されるのが一般的である。要出典「(その)気(=同性愛志向)がない」の語形は、戦後日本のゲイコミュニティ内における内部言語として確立し、後に片仮名表記の「ノンケ」として固定化された経緯を持つ。「のけ」の音転写としての「nonke」は、英語接頭辞 non-(否定)との偶然的な音的近接により、いっそう定着しやすい語形となった可能性が指摘される。
語形成立の時期については確定的な資料が乏しく、口語的領域における初出の特定は困難である。戦後ゲイ雑誌『薔薇族』(1971–2008、伊藤文学編集)等の媒体における運用、ゲイバー等のコミュニティ空間における口頭運用が、当該語の流通基盤を構成したと推定される。要出典1980 年代以降のゲイコミュニティの可視化、1990 年代以降の HIV/AIDS 対策・性的少数者の権利運動の進行に伴って、当該語形は内部言語として一般化した。
英語圏のゲイコミュニティにおける対応語としては、straight(ストレート、異性愛者一般)、str8(同上のテキスト略形)、het(heterosexual の略)等がある。「ノンケ」が「ゲイ向け」の運用文脈に強く根を持つ語形であるのに対し、英語圏の straight は性的少数者コミュニティ外でも広く運用される一般語の性格を持つ点に、両言語間の運用差がある。
派生語と隣接領域
「ノンケ攻略」「ノンケ崩し」
ゲイ向け同人誌・ゲイ向け小説等のサブカル媒体における物語類型を指す業界用語。「異性愛者として自己同定していた人物が、男性主人公の働きかけにより同性愛経験に至る」物語構造を主題とする。当該物語類型では、(a) 異性愛者として確固たる自己同一性を持つ人物の設定、(b) 当該人物の自己認識を揺るがす契機の導入、(c) 最終的な性的経験を経ての関係性の確立、の三段構造が定型化されている。
物語類型としての「ノンケ攻略」は、フィクション内の物語装置として運用されるものであり、現実関係への適用にあたっては相手の合意・自己決定が大前提となることを断っておく必要がある。実在の異性愛者男性に対する一方的な働きかけは、相手の自己決定権を侵害する性的圧力に該当しうるものであり、物語類型と現実関係を混同しない受容が責任ある読者に要請される。
「ノンケホスト」「ノンケ系」
風俗・ナイトワーク領域における運用。男性向けゲイ風俗店の従業員のうち、異性愛者を自認しつつゲイ向けサービスに従事する従業員を指す業界用語として運用される場合がある。要出典当該従業員の実際のセクシュアリティは複雑であり、「ノンケ」の自己呼称の運用は、職業上の演出としての側面を伴う場合が多い。
「ゲイ寄りノンケ」「グレーゾーン」
異性愛者として自己同定する一方で、同性への性的関心を一定程度持つ人物を指す俗語的運用。「バイセクシュアル」概念の周辺領域として位置づけられ、固定的な性的志向カテゴリへの還元に抵抗する自己同一性として運用される場合がある。
文化的言及と社会的変容
ゲイ・スタディーズの観点からは、「ノンケ」概念は性的志向の二項分類(同性愛/異性愛)を前提とする言語実践として論じられる。性的志向に関する現代の理論枠組み(キンゼイ・スケール、性的流動性概念、クィア理論等)は、当該二項分類の固定性に対する批判的検討を進めてきた経緯があり、「ノンケ/ゲイ」の二項対立的運用は当該理論的潮流の対象として論じられる。
社会的変容の観点からは、2010 年代以降の性的多様性に関する社会的認識の進行、トランスジェンダー・バイセクシュアル等の中間的・流動的カテゴリの可視化、SNS 文化における自己同定の精緻化等に伴って、「ノンケ」の概念的単純さが揺らぐ現象が指摘されている。当該語形は依然として日常会話・サブカル領域で運用されるが、より精緻な性的志向・性自認の自己定義語との並列・置換が進行している。
サブカル領域における「ノンケ」物語類型の発達は、日本のゲイ向け同人誌・BL(Boys’ Love)・「やおい」等のジャンル形成と並走する。1970-80 年代の少女漫画における男性間恋愛物語(竹宮惠子・萩尾望都ら)に始まり、1990 年代以降の同人誌文化、2000 年代以降の商業 BL 出版の発達を経て、当該領域は日本のサブカル文化の主要構成要素として確立した。「ノンケ攻略」物語類型は、当該文化潮流における中核的主題の一として継続的に運用されている。
国際的には、日本産 BL・ゲイ向けサブカル作品の英語圏・中華圏への流通を経て、「nonke」の語形が英語圏 BL コミュニティ・yaoi 愛好者の間で借用語として運用される事例が確認されている。要出典日本固有のゲイカルチャー隠語が、サブカル経由で国際的内部言語化する事例として位置づけられる。
関連項目
参考文献
- 『ゲイ・スタディーズ』 青土社 (1997) — 日本ゲイカルチャー史の体系的検討
- 『薔薇族 編集長』 幻冬舎 (2006) — 戦後日本ゲイ雑誌史の一次証言
- 『新宿二丁目』 新潮社 (2019) — 日本ゲイコミュニティ形成史
- 『Queer Japan』 Rowman & Littlefield (2005)
別名
- ノンケ
- non-gay
- heterosexual male
- ストレート