やおい
冬のコミケ会場で、長蛇の列を成す女性参加者の手には、人気少年漫画のキャラクター名を冠した薄い本が握られている。原作には描かれない男性キャラクター同士の親密な関係性を描いた創作群──その膨大な集積が、半世紀近くにわたり日本の女性向け二次創作市場の中核を構成してきた。
やおい(やおい、英: yaoi)とは、1970 年代後半の同人誌文化を発生母体として成立した、主に女性の作り手・読み手によって担われる、男性キャラクター同士の関係性を主題とする二次創作群、ならびにそれに連なる創作様式の総称である。語源は同人誌の作品傾向に対する自虐的標語「ヤマなしオチなし意味なし」の頭文字とされ、後に商業出版の領域で発達する「ボーイズラブ(BL)」の系譜的前身としても位置づけられる。本項では同人誌文化における発生過程、コミックマーケットを舞台とした拡大、商業 BL との分化、英語圏における海外受容(海外スラング 801 を含む)について扱う。
概要
やおいは、既存の漫画・アニメ・ゲーム等の原作に登場する男性キャラクター二名(あるいは複数名)を主人公とし、原作内には描かれない恋愛・性愛関係を描く二次創作実践である。原作キャラクターのうち能動的役回りを担う者を「攻め」、受動的役回りを担う者を「受け」と呼び、両者の関係を「攻め × 受け」の表記(カップリング表記)で示す慣行が、ジャンル内の共通言語として確立している。
担い手の大半は女性であり要出典、創作・受容・流通のいずれの局面においても女性主導のコミュニティが形成されてきた点で、男性向けエロマンガ同人誌とは独立した文化圏を成す。やおい二次創作は、原作の男性同性愛(ホモソーシャル)関係を性愛関係へと読み替える「カップリング解釈」(以下、CP 解釈)を作家・読者間で共有・交換する集合的実践として機能してきた。
商業出版の領域で発達するボーイズラブ(BL)とは、歴史的・人脈的に連続的でありながら、(1) 原作の有無、(2) 出版形態(同人誌か商業誌か)、(3) 編集介入の有無、の三点で区別される。同人誌即売会(コミケ、赤ブーブー通信社主催のシティ等)、女性向け同人誌専門書店(アニメイト、らしんばん等)、オンライン投稿プラットフォーム(pixiv、Twitter/X、Skeb 等)が主要な流通の場である。
語源
「やおい」の語源は、1970 年代後半の少女漫画ファンダム・同人誌即売会界隈で流通した自虐的標語「ヤマなしオチなし意味なし」とされる要出典。各語の頭文字「ヤ」「オ」「イ」を取って「やおい」と称した。元来は同人誌の作品が物語的な起伏(ヤマ)・結末(オチ)・主題(意味)を欠き、登場人物間の関係性のみを抽出して描くスタイルへの自己批評的呼称であったが、転じて当該ジャンル全体を指す総称として定着した。
別説として、1979 年に同人誌『らっぽり』(波津彬子・坂田靖子・橋本多佳子ら)上で坂田靖子が当該語を用いたとする説、漫画批評集団「迷宮」周辺で同時多発的に使われたとする説等が併存する。現在に至るまで起源の単一決定はなされていないが、1979〜1981 年頃に同人誌界隈で語が流通し始めた点は複数の証言から確認される。
英語圏の対応語 yaoi は、2000 年前後より英語の二次創作コミュニティで使われ始め、現在は北米・欧州・東南アジア・ラテンアメリカの fandom 用語として広く通用している。後述する派生スラング 801(やおい)もこの過程で英語圏に渡った。
歴史
前史:1970 年代の少女漫画と JUNE
やおいの直接的な前史は、1970 年代の少女漫画における男性同性愛主題の登場に求められる。萩尾望都『トーマの心臓』(1974)、竹宮惠子『風と木の詩』(1976〜1984)、山岸凉子『日出処の天子』(1980〜1984)等、いわゆる「24 年組」と呼ばれる女性漫画家群によって、寄宿学校や歴史的舞台を背景とする男性同士の恋愛物語が、商業少女漫画の主流ジャンルの一つとして確立した。
1978 年に創刊された専門誌『JUNE』(サン出版)は、男性同性愛を主題とする小説・漫画を専門に掲載する商業誌として、これら諸作家・作品の系譜を継承し、後の BL 商業出版の原型を形成した。同誌の名称は、フランスの作家ジャン・ジュネ(Jean Genet)に由来するとされ、当該ジャンルは一時期「JUNE もの」とも称された。
同人誌文化からの発生(1979〜1980 年代前半)
同人誌を発表媒体とする女性二次創作の発生は、1970 年代後半の漫画ファンダムに見出される。1975 年に始まるコミックマーケットは、当初より女性参加者の比率が高く、第 1 回(1975 年 12 月)の参加者の約 9 割が女性であったとされる要出典。少女漫画・少年漫画の双方を素材とする女性ファンの二次創作活動が、コミケを中心とする同人誌流通に組み込まれていった。
1979 年前後、同人誌『らっぽり』『さらしな』等のミニコミ誌界隈において、原作キャラクターの男性同士関係を描く創作と「ヤマなしオチなし意味なし」の自称が結びつき、後にやおいと呼ばれる作品傾向が成立した。1980 年代前半には『キャプテン翼』(高橋陽一、1981 年連載開始)が女性ファンによる二次創作の最初の大規模な原作となり、若林源三・日向小次郎ら男性キャラクター同士のカップリングを描いた同人誌が爆発的に増加した。同期間にコミケの女性参加サークル数は急増し、二次創作即売会の女性主導性が決定的に確立された。
拡大と細分化(1980 年代後半〜1990 年代)
1980 年代後半以降、やおい二次創作の対象原作は『聖闘士星矢』『鎧伝サムライトルーパー』『幽☆遊☆白書』『SLAM DUNK』等、各時代の少年漫画・アニメへと連続的に拡張した。原作ヒットと連動して同人誌即売会のジャンルスペース配置が大規模に再編される運用が、コミケ運営によって整備されていった。1990 年代には『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)、『機動戦士ガンダムW』(1995)、『るろうに剣心』(1996)、『テニスの王子様』(1999)等が連続的に主要原作となった。
同時期、商業出版の領域では『JUNE』の流れを受けて専業の商業誌が分化し、ビブロス『b-Boy』(1993)、徳間書店『Chara』(1994)、リブレ出版各誌等が次々に創刊された。1990 年代後半には商業誌の領域で「ボーイズラブ(BL)」の名称が定着し、同人誌のやおいと商業誌の BL の用語的分化が進行した。
商業 BL との分化と再融合(2000 年代以降)
2000 年代以降、商業 BL 出版は出版業界内で独立した一ジャンルを形成し、雑誌・単行本・小説・ドラマ CD・ゲーム・テレビアニメ・実写映像といった多メディア展開を遂げた。同時期、同人誌領域のやおいも、原作の多様化(『鋼の錬金術師』『銀魂』『黒子のバスケ』『弱虫ペダル』『鬼滅の刃』『呪術廻戦』等)に伴って恒常的に拡大を続けた。
商業 BL とやおい二次創作は、作家・読者の双方向流動が常態化しており、商業作家がペンネームを変えて同人活動を行う事例、同人作家が商業 BL に進出する事例が一般化している。両者の境界は流動的で、「BL」を商業作品の総称、「やおい」を同人二次創作群の総称、「腐女子」を当該ジャンルの女性愛好者の自称、と用法が分化していった要出典。
2010 年代以降、pixiv・Twitter/X 等の SNS への投稿が、紙媒体と並ぶやおい二次創作の主要な流通形態となった。同時期、Web 小説プラットフォーム(pixiv 小説、ノベルアップ+、カクヨム等)上の二次創作小説、Skeb・スケッターズ等のリクエスト型有償投稿サービスへの拡張も進行した。
派生形態
カップリング(CP)
やおい二次創作は、特定のカップリングを核として共同体化する点に特徴がある。「攻め × 受け」の表記順は不可逆的に運用され、表記順を逆にした「リバ」(リバーシブル)・「総受け」(特定キャラクターを多数の相手と組み合わせる形式)等の細分カテゴリも併存する。読者は自身の好む CP 以外への接触を回避する慣行(地雷回避)が、同ジャンル内の共有規範として強く機能してきた。
ジャンル内の主題類型
やおい二次創作には、「学園もの」「アルファ・ベータ・オメガ(ABO)」「マフィアもの」「ファンタジー」「現代恋愛」等、原作横断的な主題類型が成立している。中でも 2010 年代に英語圏 fandom から逆輸入された「ABO 設定」は、生物学的階級(alpha / beta / omega)を架空設定として導入する世界観で、性別・支配関係を再構成する装置として広範に流通した。
商業 BL の系譜
やおい二次創作で活動する作家が商業 BL 誌に移行する経路、ならびに商業作家のオリジナル BL 作品が同人誌の二次創作で再解釈される経路は、二者間で恒常的に往還する。商業 BL の歴史と作品論については、「BL」項(関連項目に記載予定)を参照。
文化的言及
海外への波及と海外スラング 801
英語圏では 2000 年前後より、北米のアニメコンベンション・スキャンレーション(海賊翻訳)コミュニティを介してやおい同人誌の存在が認知された。英語の fandom 用語として yaoi が定着し、北米・欧州・南米・東南アジアの女性ファンダムに広まった。米国では 2003 年に Yaoi-Con(やおい専門のコンベンション)がサンフランシスコで開催され、2010 年代まで続いた。
海外のやおい愛好者の自称・通称として、日本語の数字遊戯「801」が広く流通している。これは「やおい」の音「ヤ(8)・オ(0)・イ(1)」を数字で表記したもので、Twitter/X 等の SNS タグ、コミュニティ名、画像投稿サイトの板名等として国際的に使用されている。日本国内でも 2000 年代後半以降、漫画雑誌『コミック百合姫』の姉妹誌や Web 投稿サイトの分類名として 801 表記が併用されてきた。
学術的研究
やおい・BL は、ジェンダー研究・サブカルチャー研究の主要対象である。永久保陽子『ヤオイ小説論』(2005)は、やおい小説の物語構造とジェンダー表象を体系的に分析した代表的研究である。溝口彰子『BL 進化論』(2015)は、BL が現実社会のジェンダー規範に与える影響を論じ、商業 BL とやおい同人の連続性を学術的に整理した。
英語圏では McLelland らの編著 Boys’ Love Manga and Beyond(2015、ミシシッピ大学出版)が、日本のやおい・BL を国際的・学際的視座から論じた重要文献である。Sharon Kinsella Adult Manga(2000)も、やおい同人誌の社会的位置を欧米学術界に紹介した先駆的著作の一つである。
ゲイ当事者からの応答
やおい二次創作は、男性同性愛を主題としながら、その担い手・想定読者がほぼ女性に限定される点で、現実のゲイ・男性同性愛者コミュニティとの関係をしばしば論じられてきた。1990 年代以降、ゲイ当事者の側からやおいに対する批判(「やおい論争」)が提起され、女性が男性同性愛を消費的に表象することへの倫理的問いが、雑誌『CHOISIR』『クィア・ジャパン』等を舞台に交わされた。当該論争は、二次創作・ジェンダー表象・少数者表象を巡る現代日本の重要な思想史的論点として継続的に再評価されている。
関連項目
参考文献
- 『ヤオイ小説論―女性のためのエロス表現』 専修大学出版局 (2005)
- 『BL進化論―ボーイズラブが社会を動かす』 太田出版 (2015)
- 『戦後マンガの構造』 新評社 (1980)
- 『Boys' Love Manga and Beyond: History, Culture, and Community in Japan』 University Press of Mississippi (2015)
- 『コミックマーケット30'sファイル』 青林工藝舎 (2005)
- 『Adult Manga: Culture and Power in Contemporary Japanese Society』 Curzon Press (2000)
別名
- YAOI
- 801
- 女性向け二次創作
- ヤオイ