刑法175条
刑法 175 条とは、わいせつな文書・図画・電磁的記録の頒布等を処罰する日本の刑事規定であり、近現代日本における性表現規制の中核を成す条文である。
刑法 175 条(けいほうひゃくななじゅうごじょう、わいせつ物頒布等罪)は、わいせつな文書・図画・電磁的記録その他の物を頒布・公然陳列した者、および販売目的で所持した者を処罰する日本の刑事規定である。明治 40 年(1907 年)制定の現行刑法に当初から含まれた条項であり、その後の改正を経つつ、120 年以上にわたり日本の性表現規制の法的基盤を成している。本項では条文の構造、立法史、主要判例、現代における運用を扱う。
条文
刑法 175 条の現行条文(2011 年改正後)は、以下のとおりである(要約)。
第 1 項: わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2 年以下の懲役若しくは 250 万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
第 2 項: 有償で頒布する目的で前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。
法定刑は 2 年以下の懲役、250 万円以下の罰金、または併科である。
立法史
明治期の前史
明治 13 年(1880 年)制定の旧刑法 259 条は、わいせつな文書・図画の販売およびその製造を処罰する規定を置いていた。これは現行刑法 175 条の直接的前身である。
明治 40 年(1907 年)の現行刑法制定時、175 条として現代的形態の規定が導入された。当該時期は、近代国民国家形成の過程で、欧米の刑法体系を参照しつつ日本独自の道徳秩序を構築する時期にあたる。175 条は、フランス・ドイツ刑法の同種規定を参考としつつ、日本におけるわいせつ概念の独自展開と接続して機能した。
戦後の改正
第二次世界大戦後の刑法改正において、175 条は基本構造を維持したまま、いくつかの実質的改正を経た。1995 年の刑法現代語化により、文体が口語化された。2011 年改正により、電磁的記録(デジタルデータ)が頒布対象として明示され、インターネット時代の表現流通に対応する条文となった。
法定刑は、当初の懲役 6 ヶ月以下から、現在の 2 年以下に段階的に引き上げられた経緯を持つ。
主要判例
刑法 175 条の運用は、複数の重要な最高裁判例により形成されてきた。これらの判例は、わいせつ概念の定義と表現の自由との関係をめぐる、戦後日本の法制度の中核的論点を形作っている。
チャタレイ事件(1957)
D・H・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』(英、1928)の小山書店版邦訳(伊藤整訳、1950)が、175 条違反で起訴された事件である。1957 年(昭和 32 年)3 月 13 日、最高裁大法廷は被告人らを有罪とし、わいせつ性の判断基準を「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」と定式化した(チャタレイ判決の三要件)。
同判決は、戦後日本におけるわいせつ概念の規範的定義として、その後の判例・実務の基礎を成した。同時に、表現の自由との緊張関係をめぐる継続的議論の起点ともなった。
悪徳の栄え事件(1969)
マルキ・ド・サド『悪徳の栄え 続―ジュリエットの物語あるいは悪徳の栄え』の澁澤龍彦訳・現代思潮社版(1959)が、175 条違反で起訴された事件である。1969 年(昭和 44 年)10 月 15 日、最高裁大法廷は被告人らを有罪としたが、わいせつ性の判断において「文書全体としての考察」を要求し、特定の卑猥な記述部分のみで判断することを否定した(全体的考察方法)。
同判決は、わいせつ性判断の方法論を精緻化し、文学的・芸術的価値とわいせつ性の関係をめぐる議論を深化させた。少数意見では、文書の芸術性・思想性が高い場合にはわいせつ性が阻却されうるとする見解(文学性のあるものはわいせつではない、とする立場)が示され、後年の議論に影響を与えた。
四畳半襖の下張事件(1980)
明治期に成立し永井荷風の作とされた猥褻文書「四畳半襖の下張」の月刊誌『面白半分』掲載(1972)が、175 条違反で起訴された事件である。1980 年(昭和 55 年)11 月 28 日、最高裁は被告人らを有罪とし、わいせつ性の判断要素として、(1) 性的描写の程度・手法、(2) 全体に占める性的描写の比重、(3) 文書の主題と性的描写の関連、(4) 文書の芸術性・思想性、(5) 一般読者の受け止め、の 5 要素を提示した(四畳半襖判決の判断要素)。
同判決は、戦後の 175 条運用における判断方法を最終的に整理した先例として、現代に至るまで実務の基準として参照される。
現代における運用
電磁的記録への対応
2011 年の刑法改正により、電磁的記録(デジタルデータ)が頒布対象として明示された。これに伴い、インターネット上のわいせつ画像・動画の頒布、海外サーバーを経由する配信などが、175 条の適用対象として明確化された。
判例上、海外サーバーに蔵置されたデータであっても、日本国内からのアクセスを目的として配信されている場合には、日本の管轄が及ぶとされる(最高裁平成 26 年 11 月 25 日決定など)。これにより、海外を経由するインターネット配信に対しても 175 条が運用される実務が定着している。
モザイク処理の慣行
アダルトビデオ・成人向け雑誌・写真集において、性器をぼかし処理(モザイク処理)で覆う慣行は、175 条の運用基準への業界自主規制上の対応として確立した。この処理が施されている場合には、175 条のわいせつ性判断において「わいせつ性なし」とされる業界実務が形成されている。ただし、モザイク処理の有無のみで法律上のわいせつ性が機械的に決まるわけではなく、最終的には個別事案ごとの判断となる。
芸術と表現規制
近年、芸術領域での 175 条適用事例が複数発生している。美術家ろくでなし子による女性器を題材とする作品が 2014 年に 175 条違反として起訴され、2020 年 7 月、最高裁第一小法廷は、女性器の 3D データを送信した行為についてはわいせつ電磁的記録頒布罪の成立を認め罰金 40 万円の有罪を確定させた一方、女性器を象った造形物の展示については下級審で無罪が確定した。同事件は、芸術表現とわいせつ性の関係をめぐる現代的論点を提示するものとして、批評・研究の対象となっている。
国際比較
英米法系の諸国では、わいせつ規制は表現の自由(米国憲法修正第 1 条等)との緊張関係において運用されている。米国の Miller test(1973 年 Miller v. California)、英国 Obscene Publications Act 1959 など、それぞれ独自の判断基準を持つ。
日本の 175 条は、これら諸国の規制と比較して、性器の明示的描写そのものを規制対象とする傾向が強く、芸術性・思想性の評価が抗弁として相対的に弱く機能する点に特徴がある。これは戦後の判例蓄積の中で形成された日本独自の運用慣行であり、国際的にも独特の性表現規制体系を成している。
関連項目
- わいせつ概念
- AV 新法
- 表現の自由
- 公然わいせつ罪(刑法 174 条)
- チャタレイ事件
- 悪徳の栄え事件
- 表現規制
参考文献
- 『刑法各論(第7版)』 弘文堂 (2018)
- 『わいせつ概念と表現の自由』 法律文化社 (1986)
- 『チャタレイ事件 最高裁判決』 最高裁判所大法廷判決 (1957) — 昭和32年3月13日 最大判 刑集11巻3号997頁
- 『悪徳の栄え事件 最高裁判決』 最高裁判所大法廷判決 (1969) — 昭和44年10月15日 最大判 刑集23巻10号1239頁
- 『四畳半襖の下張事件 最高裁判決』 最高裁判所第二小法廷判決 (1980) — 昭和55年11月28日 最判 刑集34巻6号433頁