わいせつ概念とは、日本の刑事規制における性表現規制の中核に位置する法概念であり、判例により段階的に精緻化された定義を有する規範的概念である。
わいせつ概念(わいせつがいねん、漢字表記「猥褻」)は、日本の刑事規制において刑法 175 条(わいせつ物頒布等罪)、刑法 174 条(公然わいせつ罪)、軽犯罪法、各種条例における中心概念として機能する規範的法概念である。明治期の刑事規制成立以来、判例の蓄積を通じて段階的に精緻化されてきたが、その内容は時代・社会・文化的状況に応じて変化する性格を持つ。本項では概念史、判例上の定義、現代の運用、論点を扱う。
概念の性格
「わいせつ」は、刑法上の規制概念であると同時に、社会的・道徳的価値判断を内包する規範的概念である。具体的な物・行為のわいせつ性は、固定的・客観的に定まるものではなく、時代の社会通念に応じて変化する。最高裁判例も、わいせつ性の判断は「社会通念」を基準とすることを繰り返し明示しており、その時々の社会的価値判断との連動性が概念の本質的構造に組み込まれている。
この性格上、わいせつ概念は表現の自由との緊張関係を継続的に伴う。明確性原則の観点から、何がわいせつであるかが事前に判別困難な場合、表現者の萎縮効果(chilling effect)を生じる懸念が、戦後の憲法学・刑事法学において論じられてきた。
語源と概念史
漢語としての「猥褻」
「猥褻」は中国古典に起源を持つ漢語であり、本来は「卑しく汚らわしい」という広い道徳的非難を含む語であった。「猥」は「みだら」「乱雑」を、「褻」は「親しむ」「日常的でぞんざい」を原義とし、両者の合成によって「節度を欠く乱雑さ」を表す概念として用いられた。
近代法への組み込みは、明治期の刑法立案過程で行われた。フランス・ドイツ刑法における outrage public à la pudeur(公然の羞恥心への侵害)、Erregung öffentlichen Ärgernisses(公の不快感の喚起)などの概念に対応する日本語訳語として「猥褻」が選択され、1880 年(明治 13 年)旧刑法以降、刑法上の規制概念として確立した。
戦後の概念形成
戦後、新憲法の表現の自由規定(21 条)との関係で、わいせつ概念の運用は大きな再検討を経た。後述するチャタレイ事件最高裁判決(1957)を起点として、戦後判例によるわいせつ概念の定義が段階的に蓄積されてきた。
判例による定義
チャタレイ判決の三要件(1957)
最高裁大法廷昭和 32 年 3 月 13 日判決(チャタレイ事件)は、わいせつ性の判断基準として、以下の三要件を提示した。
- 徒らに性欲を興奮または刺激せしめること
- 普通人の正常な性的羞恥心を害すること
- 善良な性的道義観念に反すること
これら三要件のすべてを満たす場合に、わいせつ性が認められる。同判決は、戦後日本のわいせつ概念の規範的定義として、その後の判例・実務の基礎となった。
全体的考察方法(1969)
最高裁大法廷昭和 44 年 10 月 15 日判決(悪徳の栄え事件)は、わいせつ性の判断において、特定の卑猥な記述部分のみを抜き出して判断するのではなく、文書全体を考察対象とすべきことを明示した。これは、文学的・芸術的価値を持つ作品においては、性的描写が全体の中で一定の位置を占めるに留まる場合があり、部分的描写のみでわいせつ性を判断することが妥当でないことを反映する判断方法である。
判断要素の精緻化(1980)
最高裁第二小法廷昭和 55 年 11 月 28 日判決(四畳半襖の下張事件)は、わいせつ性の判断要素として、以下の 5 要素を提示した。
- 性的描写の程度・手法
- 全体に占める性的描写の比重
- 文書の主題と性的描写の関連
- 文書の芸術性・思想性
- 一般読者の受け止め
これら要素を総合的に考察し、わいせつ性を判断する方法論が、現代に至るまで実務の基準として用いられている。
現代における運用
モザイク処理
アダルトビデオ・成人向け雑誌・写真集において、性器を覆う処理(モザイク処理)を施す慣行は、わいせつ性判断における業界自主規制上の対応として確立してきた。当該処理が施されている場合、わいせつ性が阻却される業界実務が形成されているが、これは法律上の自動的判断ではなく、個別事案における判断の一要素として機能するに過ぎない。
判例上、モザイク処理が施されていても、その他の要素(直接的・露骨な描写、未成年を描く表現等)によりわいせつ性が認定される事例は存在する。逆に、モザイク処理がなくても芸術性・思想性が高い場合にわいせつ性が阻却された事例(限定的)も存在する。
電磁的記録への適用
2011 年の刑法 175 条改正により、電磁的記録(デジタルデータ)が頒布対象として明示された。これに伴い、インターネット上の表現に対するわいせつ概念の適用が拡大した。海外サーバー経由の配信、SNS 上の表現、暗号化通信を介した流通など、新たな運用課題が継続的に提起されている。
同人誌・芸術表現
同人誌、現代芸術領域、漫画における性表現に対するわいせつ概念の適用は、近年の重要論点である。美術家ろくでなし子による女性器を題材とする作品が 2014 年に 175 条違反として起訴された事件(2020 年最高裁判決により 3D データ送信について有罪確定)は、芸術表現と規制の境界をめぐる現代的議論を提示した。
論点と批判
明確性原則との関係
わいせつ概念は社会通念に依拠する性格上、その内容が事前に明確に予測しがたいという批判が、戦後一貫して提起されてきた。表現者は何がわいせつ規制の対象となるかを予測できないため、表現の自主規制(萎縮効果)が過度に生じる懸念が指摘される。
表現の自由との関係
表現の自由(表現の自由、憲法 21 条)とわいせつ規制の関係は、戦後の憲法学における中心的論点の一つである。わいせつ規制を表現の自由の制約として正当化する論理(社会道徳の保護、青少年保護、性的羞恥心の保護等)については、それぞれ批判的検討が継続的に行われている。
ジェンダー的視座
わいせつ概念がジェンダー中立的に運用されているか否か、という問題提起がある。同概念の運用が、男性視点の規範を反映する形で女性身体の表現に対して厳格に適用される一方、男性身体の表現に対しては相対的に寛容となる傾向があるとの指摘が、一部の研究者・批評家から提示されている要出典。
国際比較
米国
米国における obscenity 概念は、1973 年 Miller v. California 判決により定式化された Miller test(三要件)を基準とする。これは(1)平均人が、現代の地域社会基準を適用して、対象作品全体が好色的興味に訴えると判断すること、(2)対象作品が、適用される州法によって明示的に禁じられる方法で性的行為を描写し、明らかに不快な方法で描写していること、(3)対象作品全体として、重大な文学的・芸術的・政治的・科学的価値を欠くこと、の三要件である。
英国
英国の Obscene Publications Act 1959 は、わいせつ性を「腐敗・堕落させる傾向」(tendency to deprave and corrupt)を持つかにより判断する。同法に基づく規制は、1960 年代以降の文学的わいせつ事件(『チャタレイ夫人の恋人』英国訴追事件等)を通じて、判例の蓄積を経て運用されている。
比較法的特徴
日本のわいせつ概念は、米国・英国の概念と比較して、性器の明示的描写そのものを規制対象とする傾向が強く、芸術性・思想性の評価が抗弁として相対的に弱く機能する点に特徴がある。これは戦後の判例蓄積の中で形成された日本独自の運用慣行であり、国際的にも独特の性表現規制体系を成している。
関連項目
- 刑法 175 条
- 表現の自由
- 公然わいせつ罪(刑法 174 条)
- AV 新法
- チャタレイ事件
- 悪徳の栄え事件
- 四畳半襖の下張事件
参考文献
- 『わいせつ概念と表現の自由』 法律文化社 (1986)
- 『刑法各論(第7版)』 弘文堂 (2018)
- 『チャタレイ事件 最高裁判決』 最高裁判所大法廷判決 (1957) — 昭和32年3月13日 最大判 刑集11巻3号997頁
- 『Free Speech and the Regulation of Obscenity in Japan』 Cambridge University Press (2017)
別名
- 猥褻
- わいせつ
- obscenity
- obscenity concept