性教育
ある中学校の保健体育の授業。教師は教科書の「思春期の体の変化」のページを開き、ホルモン分泌・第二次性徴の説明を進める。次のページに「受精と妊娠の仕組み」が掲載されているが、教師は「ここは扱わないことになっている」と告げ、章を飛ばす。生徒は性交が何を指すかを家庭でも学校でも学ばないまま、インターネット上の情報源に向かうことになる。これが、長らく日本の学校現場の標準であった。学習指導要領上の「歯止め規定」が、性教育の射程を画してきた構造である。
性教育(せいきょういく、英 sex education / sexuality education)は、性に関わる科学的知識・倫理・対人関係・人権を体系的に教える教育実践である。日本の学校教育における性教育は、学習指導要領による教育内容の枠付け、「歯止め規定」をめぐる論争、地方自治体・議員による現場介入事案、UNESCO『国際セクシュアリティ教育ガイダンス』との乖離など、複数の論点を抱えながら展開してきた。本項では概念史、日本の学校教育における規定、関連事件、国際的潮流、論点を扱う。
概念の構造
「性教育」の射程
「性教育」が指す内容は、文脈により異なる射程を持つ。狭義には学校における性に関する保健衛生学的教育(第二次性徴・受精・妊娠・性感染症等)を指し、広義にはこれに加えて性的指向・ジェンダー多様性・性的同意・対人関係・暴力防止教育・メディアリテラシー等を含む包括的概念となる。後者の広い射程は、UNESCO 等が提示する「包括的性教育」(comprehensive sexuality education, CSE)概念に対応する。
「歯止め規定」
日本の中学校学習指導要領(保健体育)は、長らく「妊娠の経過は取り扱わないものとする」との注記を置いてきた。これが「歯止め規定」と通称される。具体的には、性交を含む受精プロセスの教授を中学校段階で扱わないことを意味する。1998 年告示の指導要領以降、現行 2017 年告示版に至るまで維持されている。
日本の学校教育における展開
戦後初期
戦後の性教育は、1947 年文部省『純潔教育基本要項』に始まる。当初は性病予防・「純潔」維持を中心とする規範的教育の性格が強く、戦後民主主義下における学校教育の中で展開した。
1990 年代の充実期
1990 年代は、性教育の充実が進んだ時期である。1992 年には小学校 5 年生の理科で「人の発生」が教えられるようになり、性教育に関する書籍・教材も多数刊行された。「性教育元年」と呼ばれることもある。
バックラッシュと「歯止め規定」
2000 年代に入ると、保守系議員・団体による性教育批判が広まった。2002 年告示の中学校学習指導要領で「妊娠の経過は取り扱わないものとする」との「歯止め規定」が導入され、性教育の射程が縮小された。2003 年の七生養護学校事件は、このバックラッシュの象徴的事案として知られる。
2010 年代以降の再評価
2010 年代以降、若年妊娠・性感染症・性暴力被害といった現実問題への対応として、性教育の必要性が再評価された。2018 年、足立区立中学校での避妊・人工妊娠中絶を扱う授業に対する都議会議員の批判事案を契機として、東京都教育委員会・足立区教育委員会の対応が議論を呼んだ。一方、2020 年代には性的同意を扱う授業の導入、生命の安全教育(2021 年-)など、政府・自治体・教育委員会主導の取り組みも進展している。
関連事件
七生養護学校事件
2003 年に発生した、東京都立七生養護学校(現:七生特別支援学校)における性教育バッシング事案。同校は知的障害を持つ児童生徒のために、性器の名称・働きを歌・人形を用いて教える「こころとからだの学習」を独自開発し、1997 年以降実践していた。
2003 年 7 月、都議会議員(土屋敬之、古賀俊昭、田代博嗣)が現地視察を行い、教材を「常識では考えられない」「不適切」と批判、東京都教育委員会が校長・教員に対し厳重注意処分を行った。教材は学校から押収・撤去された。
これに対し、教員と保護者が東京都・都議らに対する損害賠償請求訴訟を提起。第一審(東京地裁 2009 年)、控訴審(東京高裁 2011 年)とも原告勝訴判決を下し、都議らの言動を「教育の自主性を侵害する違法な政治介入」と認定した。最高裁第一小法廷は 2013 年 11 月 28 日付で原告被告双方の上告を棄却し、判決が確定した。
本事件は、性教育に対する政治的介入の限界を司法が明示した判例として、教育現場・性教育研究者・教育法学者により広く参照される。
足立区立中学校事案(2018)
2018 年 3 月、東京都足立区立中学校で行われた避妊・人工妊娠中絶を扱う性教育授業に対し、都議会議員が学習指導要領に反するとの批判を提起した。東京都教育委員会・足立区教育委員会の対応が議論を呼んだが、最終的に両委員会は授業を「学習指導要領に必ずしも違反するものではない」との見解を示し、独自教材による性教育の余地を確認した。本事案は、七生養護学校事件後の性教育に対する政治的介入と、学校現場の実践の両立をめぐる事案として位置づけられる。
国際的潮流
UNESCO『国際セクシュアリティ教育ガイダンス』
UNESCO は 2009 年、UNAIDS、UNFPA、UNICEF、WHO との共同で『国際セクシュアリティ教育ガイダンス』(International Technical Guidance on Sexuality Education, ITGSE)初版を発表した。2018 年改訂版では、新たに UN Women(国連女性機関)が加わった。
同ガイダンスは、性教育を「人間の性に関する認知・情緒・身体・社会的側面についてのカリキュラムベースの学習過程」と定義し、5-18 歳の年齢層を 4 段階に分けて指導内容を提示する。8 つのキーコンセプト(関係性、価値観・人権・文化・セクシュアリティ、ジェンダー、暴力と安全、健康と幸福のためのスキル、人体の発達、セクシュアリティと性的行動、性と生殖に関する健康)を中核に据える。
包括的性教育(CSE)
「包括的性教育」(Comprehensive Sexuality Education, CSE)は、UNESCO ガイダンスが提示する性教育の包括的アプローチである。性に関する解剖学的知識のみならず、人権・ジェンダー平等・対人関係・性的同意・LGBTQ・性暴力防止等を体系的に教えるアプローチとして、国際的に広がっている。
各国の状況
オランダ・スウェーデン・フィンランド等の北欧諸国・低地諸国は、CSE を学校カリキュラムに広く組み込んでいる先進事例として知られる。米国は州ごとの差異が大きく、保守的な州では「禁欲教育」(abstinence-only education)が中心となる地域もある。英国は 2020 年から関係性教育(Relationships Education)・関係性および性教育(Relationships and Sex Education, RSE)が小・中学校で必修化された。
性教育と若年妊娠・性感染症
UNESCO 等の国際機関の研究は、CSE の実施が若年妊娠率・性感染症罹患率の低下に資することを継続的に報告している。逆に「禁欲教育」のみの教育は、若年層の性行動を抑制せず、避妊知識の不足により望まない妊娠・感染症リスクを増大させるとの実証研究が複数蓄積されている要出典。
論点
「歯止め規定」の妥当性
中学校学習指導要領の「妊娠の経過は取り扱わないものとする」規定は、性教育研究者・現場教員から継続的に批判されてきた。改正刑法(2023)が性的同意年齢を 16 歳に引き上げたのに対し、義務教育段階で性交を扱わない構造は矛盾を孕む、との指摘が法学者・教育学者から提示されている。
政治的介入と教育の自主性
七生養護学校事件は、議員・行政による教育現場への介入の限界を司法が明示した先例である。同事件後も、性教育に対する政治的介入の事例は断続的に発生しており、現場教員の萎縮効果が継続的な課題として指摘される。
包括的性教育への接近
UNESCO ガイダンスを基準とすると、日本の現行学校性教育は、解剖・生理学的内容の比重が大きく、対人関係・性的同意・LGBTQ・暴力防止等の比重が小さい。文部科学省は 2021 年から「生命の安全教育」を導入し、性暴力防止教育の充実を図っているが、CSE の包括性に到達するには、なお制度的・実践的課題が残されている。
NPO・当事者団体の補完
NPO ピルコン、SHIP、にじいろ学校等の NPO・当事者団体は、学校教育の不足を補う形で出張授業・教材提供・教員研修を展開している。これら民間活動の蓄積は、公的教育の改善を促す圧力としても機能している。
関連項目
参考文献
- 『国際セクシュアリティ教育ガイダンス【改訂版】』 明石書店 (2020)
- 『ハタチまでに知っておきたい性のこと』 大月書店 (2017)
- 『性教育バッシング: 七生養護学校事件と歴史教科書攻撃』 大月書店 (2003)
- 『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 保健体育編』 文部科学省 (2017)
別名
- 性に関する教育
- sex education
- sexuality education
- comprehensive sexuality education