セクシャルハラスメント
1989 年、福岡市の出版社で勤務する女性編集者が、上司から性的な噂を社内外に流布されて退職を余儀なくされた事案を、日本初の「セクシュアルハラスメント」訴訟として提起した。1992 年 4 月 16 日、福岡地裁判決は加害者の不法行為責任と会社の使用者責任を認定し、165 万円の損害賠償を命じた。判決を伝える新聞紙面で「セクシュアル・ハラスメント」という長い片仮名語が初めて広く流通し、同年の流行語大賞ともなった。日本社会が、職場における性的言動を法的問題として認識し始めた瞬間であった。
セクシャルハラスメント(英 sexual harassment、略称セクハラ)は、職場における性的言動により他の労働者の労働条件・就業環境を害する行為の総称である。日本では男女雇用機会均等法11 条が事業主に防止措置義務を課し、対価型(quid pro quo)・環境型(hostile environment)の二類型として整理される。本項では概念史、日本法における位置づけ、主要事案、国際比較を扱う。
概念史
米国における概念形成
「セクシュアルハラスメント」概念は 1970 年代の米国で形成された。法学者キャサリン・マッキノン(Catharine A. MacKinnon)が 1979 年に著した『Sexual Harassment of Working Women』は、性的言動を性差別の一形態として位置づけ、1964 年公民権法第 7 編(Title VII)の保護対象に含めるべきとの理論枠組みを提示した。
米国最高裁は Meritor Savings Bank v. Vinson (1986) において、「敵対的就業環境」(hostile work environment)型のセクハラを Title VII 違反と認定し、職場における性的言動の法的責任を確定させた。同判決は、対価型(昇進・採用等の見返りとして性的関係を要求するもの)と環境型(性的言動により就業環境を害するもの)の二類型を国際的に確立する転機となった。
日本への導入
日本に本概念が導入されたのは 1980 年代後半。1989 年の福岡セクハラ訴訟は日本初の同概念に基づく訴訟として注目され、1992 年 4 月 16 日の福岡地裁判決は職場の性的言動を不法行為と認定する画期的判断を示した。「セクシュアル・ハラスメント」の語は同年「新語・流行語大賞」を受賞し、社会的認知が広まった。
日本法における位置づけ
男女雇用機会均等法
男女雇用機会均等法(1985 年制定、1986 年施行、正式名称「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」)は、当初セクハラに関する規定を持たなかった。1997 年改正(1999 年施行)で 21 条(現 11 条)が新設され、事業主の「配慮義務」が法定化された。2006 年改正(2007 年施行)では「配慮義務」が「措置義務」に格上げされ、より強い法的義務として位置づけられた。
11 条の措置義務
現行 11 条 1 項は、事業主に対して、職場における性的言動により(a)労働者の労働条件に不利益が生じること(対価型)、(b)労働者の就業環境が害されること(環境型)を防止するために、相談体制の整備・適切な対応・その他の雇用管理上必要な措置を講じる義務を課す。措置義務違反に対しては、厚生労働大臣による助言・指導・勧告、勧告に従わない場合の企業名公表(33 条)が法定される。
対価型と環境型
行政指針(平成 18 年厚生労働省告示 615 号)は、職場のセクハラを以下の二類型に分類する。
対価型セクハラ:労働者が性的言動への対応(拒否・抗議等)を理由として、解雇・降格・減給等の不利益を被る類型。 環境型セクハラ:性的言動により労働者の就業環境が害され、能力発揮に重大な悪影響が生じる類型。
なお、この類型化は便宜的なものであり、実際には両類型が重畳する事案も多い。
2019 年改正と相談体制義務
2019 年 6 月、関連法改正(労働施策総合推進法・男女雇用機会均等法等)が成立し、2020 年 6 月施行(中小企業は 2022 年 4 月施行)。本改正により、事業主による相談体制整備義務が強化され、相談を理由とする不利益取扱いの禁止(11 条 2 項)、自社労働者の他社労働者に対する性的言動への対応努力義務、求職者・就活生に対する保護の必要性などが明文化された。
主要事案
福岡セクハラ訴訟(1992)
日本初のセクハラ訴訟として知られる。福岡市の出版社で女性編集者が、上司による性的な噂の流布を理由に退職を余儀なくされた事案。福岡地裁(1992 年 4 月 16 日判決)は、加害者の不法行為責任と会社の使用者責任を認定し、慰謝料 165 万円の支払いを命じた。判決理由において「職場における性的言動が女性労働者の人格を傷つけ、就業環境を悪化させる行為」と明示し、後の判例・行政指針の理論的基礎となった。
財務省事務次官事案(2018)
2018 年 4 月、財務省の事務次官 X 氏が女性記者に対して継続的に性的言動を行っていたとして、週刊誌で報じられた。本人は当初否定したが、録音音声の存在が報じられ、最終的に辞任。財務省は同年 5 月、人事院から減給相当の処分相当との認定を受けた。本件は、メディア・行政の高位職にあるエリート男性によるセクハラとして社会的衝撃を与え、メディア業界・官庁における対応見直しの契機となった。
東京医大入試差別事件(2018)
2018 年 8 月、東京医科大学が医学部入試において女性受験生・浪人受験生を一律減点していたことが報じられた。これは直接のセクハラ事案ではないが、女性医師の就業環境(妊娠・出産による離職を理由とする抑制)を背景とする差別であり、医療業界における女性労働環境とセクハラ・マタハラ問題の構造的関連を示す事案として位置づけられた。
#MeToo の波及
2017 年 10 月の米国ハーヴェイ・ワインスタイン事件を契機とする #MeToo 運動は、世界各国で性暴力・セクハラ被害の告発を広めた。日本では 2017 年から 2018 年にかけて、ジャーナリスト伊藤詩織氏による民事訴訟、出版業界・スポーツ界・政界における複数の告発が広がり、セクハラ問題への社会的関心が再度高まった。
国際比較
米国
米国では Title VII(1964 年公民権法第 7 編)が連邦レベルでの主要規制根拠であり、Equal Employment Opportunity Commission (EEOC) が法執行を担う。判例は対価型・環境型の類型を確立し、企業の使用者責任を厳格に認定する傾向を持つ。賠償額も日本に比して大きく、懲罰的損害賠償(punitive damages)を含む高額化の傾向にある。
欧州連合
欧州連合の Equal Treatment Directive 2002/73/EC(後の 2006/54/EC に統合)は、加盟国にセクハラ防止立法を義務づけた。各国法はそれぞれの労働法・差別禁止法に組み込まれ、雇用主の予防義務・相談体制義務が広く制度化されている。
ILO 暴力ハラスメント条約
国際労働機関 (ILO) は 2019 年 6 月、暴力・ハラスメント条約(第 190 号)を採択した。同条約は、職場における身体的・心理的・性的暴力およびハラスメントを国際的禁止対象とし、締約国に予防・救済・刑事責任の措置を求める。日本は 2025 年時点で未批准であるが、批准に向けた法整備が継続的に議論されている要出典。
関連概念
マタニティハラスメント
妊娠・出産・育児休業を理由とする不利益取扱い・嫌がらせを「マタハラ」と呼ぶ。男女雇用機会均等法 9 条、育児介護休業法等が規制する。セクハラと並ぶ職場におけるジェンダー関連ハラスメントとして、対応が求められる。
パワーハラスメント
職場における優越的関係を背景とする嫌がらせを「パワハラ」と呼ぶ。労働施策総合推進法 30 条の 2 (2020 年 6 月施行)が措置義務を法定する。性的要素を伴うパワハラはセクハラと重複しうる。
#MeToo 後の課題
#MeToo 運動以降、芸能・スポーツ・文化等の業界における権力構造的セクハラへの社会的関心が高まった。伊藤詩織氏の民事訴訟(2019 年東京地裁勝訴判決、2020 年東京高裁・最高裁で確定)、財務省事務次官事案など、社会的地位の高い者による加害事案の刑事・民事処理は継続的な課題である。
関連項目
参考文献
- 『雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律』 e-Gov 法令検索 (1986) https://laws.e-gov.go.jp/law/347AC0000000113
- 『セクシュアル・ハラスメントの法理』 信山社 (2008)
- 『Sexual Harassment of Working Women』 Yale University Press (1979)
- 『事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置についての指針』 厚生労働省告示615号 (2006)
別名
- セクハラ
- sexual harassment
- sex harassment
- 職場のセクハラ