アウティング
アウティング(あうてぃんぐ、英 outing)とは、本人の同意を得ないまま、第三者に対して当該人物の性的指向(sexual orientation)・性自認(gender identity)その他のセクシュアリティに関する個人情報を暴露する行為である。当事者の自己決定を奪う行為としてプライバシー権・人格権の侵害にあたり、深刻な心理的被害・社会的被害を生じさせ得るとされる。日本では 2015 年の一橋大学法科大学院での事件を契機に社会的認知が急速に進み、2018 年以降の地方自治体条例、2020 年施行の改正労働施策総合推進法(いわゆるパワーハラスメント防止法)を通じて法的・制度的禁止規範が形成されつつある。本項では概念、関連事件、法制度、カミングアウトとの差異、国際的議論を扱う。
概念と語源
語源
英語 outing は「外へ出す」を意味する out (外へ) + -ing (動名詞接尾辞) に由来する。性的少数者の文脈では、「クローゼットの中(closeted、自身のセクシュアリティを公にしていない状態)」から「外に引きずり出す(out)」という比喩的用法として 1980 年代後半の米国で定着した。動詞 to out が「(他人の同性愛等を)暴露する」の意で Time 誌等の主要紙誌に登場するのは 1990 年前後とされる。
日本語ではカタカナ語「アウティング」として 2010 年代に普及した。「暴露」「アウト化」等の訳語も提案されたが、定着はしていない。アウティングという語は、後述するように当初の米国における用法と、現在日本で用いられる用法とで意味の重心が異なる。
定義の射程
アウティングの対象となる情報は、典型的には以下のものを含む。
- 性的指向(同性愛・両性愛・無性愛等)
- 性自認(出生時に割り当てられた性別と異なるジェンダーアイデンティティ)
- 戸籍上の性別と社会生活上の性別が異なる事実
- 過去の医学的処置(ホルモン療法・性別適合手術等)
- HIV 感染状況その他の性に関連する健康情報
これらは個人のセンシティブ情報の典型例であり、個人情報の保護に関する法律(個人情報保護法)上は「要配慮個人情報」に準じる扱いが議論されている要出典。
同意の有無
アウティングの定義の核心は本人の同意の不存在である。本人が自らの意思で第三者に開示する行為はカミングアウトであり、本項のアウティングとは概念的に区別される。本人が一部の親しい者にのみ開示している情報を、その情報を共有された者がさらに第三者に伝達する行為は、原則としてアウティングに該当する。
一橋大学法科大学院事件
事案の概要
2015 年 4 月、一橋大学法科大学院に在籍する男性大学院生 A(当時 25 歳)が、同級生 B に対して恋愛感情を告白した。同年 6 月、B は LINE グループ上で他の同級生らに対し A が同性愛者である旨を暴露した。A はその後、強い精神的動揺と日常生活への支障を訴え、大学のハラスメント相談室・保健センターに相談したものの、状況は改善せず、同年 8 月、大学構内の校舎から転落して死亡した。
訴訟経過
A の遺族は 2016 年、加害学生 B 及び一橋大学に対し損害賠償を求める訴訟を提起した。B との関係では同年中に和解が成立したとされる。大学に対する訴訟は東京地裁・東京高裁を経て、2020 年 11 月の東京高裁判決をもって遺族敗訴で確定した。判決は、大学側の対応に違法性があったとは認められないとしつつ、アウティングが「人格権ないしプライバシー権を侵害するものであり、許されない行為であることは明らかである」と明確に判示した点で、その後の議論に対し重要な意義を持った。
社会的影響
事件は当事者団体・人権団体・法学界に強い衝撃を与え、それまで日本社会で十分に概念化されていなかったアウティング被害に名前と輪郭を与えた。事件を契機として、後述する国立市条例、改正労働施策総合推進法上のパワーハラスメント類型としての位置づけが進められることとなった。事件は LGBTQ 当事者にとって象徴的な事案として記憶されており、以後アウティングを論じる際の出発点となっている。
地方自治体条例
国立市条例 (2018)
東京都国立市は 2018 年 4 月 1 日施行の「国立市女性と男性及び多様な性の平等参画を推進する条例」第 8 条において、「何人も、性的指向、性自認等の公表に関するその者の意思に反して、これを公にしてはならない」とする規定を置いた。日本の地方自治体条例として初めてアウティングを明示的に禁止した条例とされ、続く各地の条例のモデルとなった。
罰則規定は付されていないが、市・市民・事業者に対する責務規定とともに、アウティングが許されない行為であることを規範的に宣言した点に意義がある。
三重県条例 (2021)
三重県は 2021 年 4 月施行の「三重県性の多様性を認め合い、誰もが安心して暮らせる社会づくり条例」(令和 3 年 3 月制定)において、性的指向・性自認等を理由とする差別的取扱いとともに、本人の同意のない公表を禁止する規定を置いた。都道府県レベルでアウティング禁止を明文化した条例として注目された。
普及状況
国立市・三重県条例以降、東京都豊島区・文京区・港区、大阪府大阪市、神奈川県横須賀市等、複数の自治体が同種の条例を整備している。都道府県・政令指定都市・特別区を中心に普及が進んでおり、2025 年時点で全国の自治体に広がりつつある要出典。
改正労働施策総合推進法 (2020)
法改正の経緯
2019 年 5 月 29 日成立、2020 年 6 月 1 日施行(中小企業については 2022 年 4 月 1 日施行)の改正労働施策総合推進法(通称パワーハラスメント防止法)は、職場におけるパワーハラスメント防止のための雇用管理上の措置を事業主に義務付けた(第 30 条の 2)。同法の施行に伴い厚生労働省が告示した「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」(令和 2 年厚生労働省告示第 5 号、いわゆるパワハラ指針)が、アウティングを「個の侵害」型のパワーハラスメントの典型例として明示した。
パワハラ指針における位置づけ
パワハラ指針は、職場のパワーハラスメントを 6 類型に整理する。「個の侵害」(私的なことに過度に立ち入ること)の例として、「労働者の性的指向・性自認や病歴、不妊治療等の機微な個人情報について、当該労働者の了解を得ずに他の労働者に暴露すること」を明示的に列挙した。これにより、職場でのアウティングは法律上のハラスメントとして位置付けられ、事業主は防止措置義務を負うこととなった。
事業主の措置義務
事業主は、パワーハラスメントを防止するため、以下の措置を講じることが義務付けられる。
- ハラスメント禁止方針の明確化と周知
- 相談窓口の設置・周知
- 事案発生時の事実確認・配慮措置・再発防止措置
- プライバシー保護及び不利益取扱いの禁止
アウティング行為を行った者は、就業規則上の懲戒対象となり得るとともに、被害者との関係では民事上の損害賠償責任(民法 709 条不法行為等)を負う可能性がある。
カミングアウトとの差異
カミングアウト
カミングアウト(coming out、より長い形では coming out of the closet)は、本人が自らの意思に基づき、自身の性的指向・性自認を他者に開示する行為である。1969 年のストーンウォール暴動以降の米国 LGBT 運動の中で、当事者が「クローゼットから出る」ことが社会的可視化と権利獲得の戦略として位置付けられ、肯定的な政治的意味を獲得した。
概念上の対比
| カミングアウト | アウティング | |
|---|---|---|
| 主体 | 本人 | 第三者 |
| 同意 | 本人の自己決定 | 本人の同意なし |
| 性質 | 自己表象 | プライバシー侵害 |
| 法的評価 | 権利の行使 | 権利の侵害 |
両者は表面的には「セクシュアリティ情報の開示」という共通性を持つが、自己決定の有無において質的に異なる行為である。カミングアウトは当事者運動の中で肯定的な実践として位置付けられ、アウティングはその裏面たる違法行為として位置付けられる。
「相対的カミングアウト」の問題
カミングアウトは「全か無か」の二項対立ではなく、相手・場面ごとに段階的・選択的に行われることが多い。家族・親しい友人にカミングアウトしている者が、職場・近隣社会に対しては開示していないということは一般的である。アウティングの違法性は、本人が情報の開示先を選択する権利(情報自己決定権)の侵害として理解される。
国際的議論
米国における outing 文化
米国では 1989 年、ジャーナリストの Michelangelo Signorile らが、保守的政治家・著名人の同性愛を当事者の意思に反して暴露する戦術を提唱した(politically motivated outing)。同性愛者であることを隠しながら反同性愛政策を推進する政治家の偽善を可視化する目的とされ、当事者運動内部でも激しい論争となった。
賛成派は、当該人物の権力的地位とその行為の社会的影響を理由に、「政治的アウティング」を正当化されるとしたが、反対派はこれをプライバシー権・自己決定権の侵害として批判した。批評家 Larry Gross は『The Trouble with Outing』(1993)においてこの議論を整理し、米国 LGBT 運動の重要な内的論点として記録した。
用語法の差異
米国の politically motivated outing と、日本で論じられる職場・教育機関でのアウティング被害は、概念は重なるが意味の重心が異なる。米国で議論された outing は、政治的著名人を対象とする戦略的暴露行為としての側面が強調されたのに対し、日本で問題化されたアウティングは、私生活・職場関係における本人の同意なき暴露の包括的禁止規範として展開している。
国連・欧州人権裁判所
国連人権理事会の性的指向・性自認に関する独立専門家報告書、欧州人権裁判所の判例(プライバシー権・人格権に関する欧州人権条約 8 条解釈)は、性的指向・性自認に関する情報を高度の保護を要するセンシティブ情報と位置付けている。これらの国際的潮流が、各国国内法における同種の保護法理の形成を促している。
議論
「悪意のないアウティング」
アウティングは、加害意図を伴う敵対的行為に限らず、配慮不足・無理解に基づく善意の暴露も含む。例えば、家族が本人の同意なくその性的指向を親族・近隣に伝える、上司が部下のセクシュアリティをチームメンバーに共有する、医療従事者が必要性のない場面で他の医療従事者に伝達する、といった事例である。一橋大学事件以降の議論は、加害者の主観的意図にかかわらず、本人の同意なき開示それ自体の違法性を強調する方向に向かっている。
二次的アウティング
ある人物が一部の者にのみカミングアウトしている情報を、その情報を共有された者(含む LGBTQ 当事者)が、無自覚にさらに第三者に伝達する事象を「二次的アウティング」と呼ぶ。当事者コミュニティ内部でも問題化されており、情報の伝達範囲を本人と確認することの重要性が継続的に啓発されている。
教育現場での課題
学校教育の場面では、児童・生徒が教員にカミングアウトした情報が、本人の同意なく他の教員・保護者・他の生徒に伝達される事案が報告されている。文部科学省は性的少数者の児童生徒に対する配慮を求める通知(2015 年、2016 年)を出しており、教職員研修等を通じて啓発が進められている。
プライバシー権との関係
アウティングの違法性は、憲法 13 条の幸福追求権・人格権から導かれる情報自己決定権、及びプライバシー権の侵害として理論構成される。一橋大学事件東京高裁判決の判示は、性的指向情報を「他者にみだりに知られたくない情報」として保護法益に含めた点で、判例上重要な蓄積となっている。
関連項目
参考文献
- 『労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律』 e-Gov 法令検索 (2020)
- 『事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針』 厚生労働省告示第 5 号 (2020)
- 『国立市女性と男性及び多様な性の平等参画を推進する条例』 国立市 (2018)
- 『同性愛者であることを暴露された大学院生の自殺と大学の安全配慮義務』 法学セミナー (2019)
- 『カミングアウト・レターズ』 太郎次郎社エディタス (2007)
- 『The Trouble with Outing』 Minnesota Press (1993)
別名
- アウティング被害
- outing