AV 男優事務所
AV 男優事務所(えーぶいだんゆうじむしょ、英: AV male actor agency)とは、AV 男優を所属させ、撮影現場への手配・スケジュール管理・育成・営業活動を担う芸能事務所の一類型である。一般に「男優プロダクション」「AV 男優エージェンシー」「男優事務所」とも呼ばれる。AV プロダクションがAV 女優のマネージメントを中核とするのに対し、男優事務所は男性出演者の現場供給と職能形成を主たる業務とし、業界の裏方労働を組織化する独自の業態として発達した。本項では 1987 年の業態成立、主要事務所の系譜、女優プロダクションとの構造的差異、ならびに 2022 年のAV 新法施行以降の運営変化について扱う。
概要
AV 男優事務所は、戦後日本のAV産業に固有の業態の一つで、男性出演者の業務管理を専門とする芸能事務所類型である。業界内では「男優事務所」「男優プロ」「男優エージェンシー」「タチヤク」(立役)等と呼称される。出演者数の少ないAV 男優業界において、若手男優の育成、現場経験の供給、スケジュール調整、メーカー・監督との交渉等を一括管理する機能を担う。
業界規模はAV 女優を所属対象とするAV プロダクションに比して圧倒的に小さい。男優の業界全体での絶対数が少ないこと、出演料が女優中心に分配される業界構造、男優の主たる収入源が出演料以外(イベント・配信・著作等)に分散する傾向にあること等が、男優事務所の業界規模を制約する構造的要因として作用している。
業界構造的には、(1) 男優、(2) 男優事務所、(3) 制作メーカー(レーベル)ないしAV 監督、の三者間関係を基本とし、男優事務所は若手男優を月給制ないし出演料配分制で抱えて現場へ派遣する一方、ベテラン男優の多くは事務所を経由せず個人で監督・メーカーと直接契約する形態に移行する傾向を持つ。
語源と呼称
「男優事務所」は、戦後日本の芸能業界における「俳優事務所」「芸能事務所」の用語法を継承する呼称で、AV 業界においては 1980 年代後半以降に定着した。業界用語としての「タチヤク」(立役)は、歌舞伎の用語に由来する「立役」を AV 業界の男性出演者に転用したもので、現場で女優を相手に絡む役割としての男優を指して用いられる。男優事務所そのものが「タチヤクの事務所」と呼ばれることもある要出典。
英語呼称の male performer agency、male talent agency は、米国アダルト業界における同種業態の呼称で、日本の男優事務所と業務範囲・契約構造の点で必ずしも一致しない。米国では男性出演者の独立業務委託契約が標準であり、長期所属を前提とする日本型の男優事務所は世界的にも独自性の高い業態である。
歴史
1987 年: セイリオスの設立と業態確立
AV 男優事務所の業態確立は、1987 年(昭和 62 年)の平本一穂による男優事務所「セイリオス」の設立を以て始期とされる。それ以前の 1980 年代前半において、男性出演者の供給はピンク映画・ロマンポルノ出身の俳優、メーカー直営のスタッフ、村西とおるが代表を務めたダイヤモンド映像の社内出演者等によって賄われていた。男優を独立した職業類型として組織化する事務所は存在しなかった。
セイリオスは、若手男優をサークル的に組織化し、現場経験の共有・撮影技術の伝達・新人育成を機能化した点で、業界における男優事務所の祖型を成した。同事務所は平本一穂自身を中心とする男優の所属基盤として機能し、1990 年代以降の同業事務所設立の参照点となった。
1990 年代: 男優事務所の業態拡大
1990 年代に入り、AV 産業の業界規模拡大に伴って、男優事務所の業態も多様化した。同時期、田淵正浩・沢木和也・チョコボール向井等のベテラン男優が業界の中核を成し、これらベテラン勢の一部が後進育成のための事務所機能を兼業する事例が登場した。
1995 年頃、加藤鷹が潮吹き作品を契機に「絡み師」として広く認知されるに至った。同男優は当初は事務所所属での活動を経たのち、自身の知名度確立後はフリーで監督・メーカーと直接交渉する形態へと移行した要出典。同男優の著作『性愛のイマージュ』(2003)は、男優としての職能観を業界外に伝える一次資料として読まれ、男優事務所の現場機能の理解にも資する内容を含む。
1990 年代後半には、新人男優の供給を専門とする中小事務所が複数並立する状況が形成された。これらの事務所は、(1) 月給制で若手を雇用し現場経験を積ませる育成型、(2) 個別出演料の配分管理を主とする仲介型、の二類型に大別される。
2000 年代: グラスホッパー等の主要事務所
2000 年代に入り、男優事務所の業態は更に整備された。同時期に業界内で広く認知されるに至った主要事務所として、グラスホッパー(Grasshopper)が挙げられる。同事務所は若手男優の育成・現場供給を専門とし、業界内の若手男優を継続的に輩出する基盤事務所として機能した要出典。
同時期、しみけん・戸川夏也・黒田将稔等の細マッチョ世代の男優が業界に登場し、これら新世代の一部は男優事務所所属を経て独立フリー化する経路を辿った。男優事務所の機能は、若手の業界参入の入り口・育成期間の現場経験供給・独立後の業務委託関係維持、と位置づけられるに至った。
2000 年代後半には、メーカー系列の男優手配機能(クリスタル映像系・エス・ワン系・SOD 系等の制作系列が独自の男優ネットワークを保有する慣行)も並行的に発達し、独立系男優事務所と系列内手配機能の二層構造が業界の標準形態として定着した要出典。
2010 年代: 個人化の進行
2010 年代を通じて、AV 男優のキャリア形成において、事務所所属を経由せず個人で SNS・YouTube・配信プラットフォーム経由で業界参入する経路が拡大した。同時期、ベテラン男優の多くは事務所を介さず個人で監督・メーカーと直接契約する形態を標準とし、男優事務所の機能は若手育成・新人供給に特化する傾向を強めた。
しみけん は同時期に書籍出版・テレビ出演・SNS 発信等を通じて業界外への広報活動を展開し、AV 男優の職業像を一般社会に伝える「広報的男優」として位置づけられた。同男優の活動は、男優事務所の枠組みを超えた個人ブランド形成の代表例として業界内で参照された。
2020 年代: AV 新法以降の運営変化
2022 年(令和 4 年)6 月 23 日施行のAV 新法(AV 出演被害防止・救済法)は、AV 業界全般の契約手続きを大幅に変更した。同法はAV 女優の出演契約に焦点を当てるものであるが、その運用は撮影スケジュールの長期化・現場プロトコルの厳格化を通じて、男優事務所の運営にも間接的影響を及ぼした。
同法施行後、(a) 撮影日程の長期化に対応する男優のスケジュール調整負担増、(b) 撮影現場での意思確認プロトコルの厳格化に対応する男優の現場対応技術の高度化、(c) 業界全体の新作制作本数減少に伴う男優の出演機会縮小、等の運営課題が男優事務所の現場業務に発生したとされる要出典。
業界構造
女優プロダクションとの非対称性
男優事務所とAV プロダクション(専属女優等を抱える女優事務所)との間には、業界規模・所属者数・経済規模の各面で大きな非対称が存在する。女優プロダクションは業界内に大手・中堅・新興を含めて数十社が並立し、所属女優数は業界全体で数千名規模に達するのに対し、男優事務所は業界内に数社規模、所属男優数は全国で数十名から百数十名程度と推定される要出典。
この非対称は、(1) 業界の経済構造(出演料が女優中心に分配される)、(2) 観客の関心構造(購買層の関心が女優に集中する)、(3) 男優のキャリア構造(独立フリー化が早期に進む)、等の構造的要因に由来する。男優事務所の業務範囲も、女優プロダクションに比して限定的で、宣伝・メディア露出戦略の比重は低く、現場供給・スケジュール調整の比重が高い。
月給制と出演料配分制
男優事務所の所属契約形態は、(1) 月給制(若手男優を固定給で雇用し、出演料を事務所が一括管理)、(2) 出演料配分制(出演ごとの報酬を事務所と男優で配分)、の二類型に大別される。月給制は若手育成期に多く用いられ、出演料配分制は中堅以降の男優に多く適用される。
事務所所属期間中の業務範囲は、現場手配・撮影スケジュール調整・撮影クルーとの連絡・経費精算・福利厚生の整備等を含む。若手男優にとって事務所所属は、現場経験の体系的供給と業界人脈の形成の場として位置づけられ、独立後のキャリア基盤となる。
独立フリー男優との関係
業界経験の蓄積に伴い、多くの男優は事務所所属から独立フリーへと移行する。独立フリー化後も、過去所属事務所との業務委託関係を維持する事例、独立後にスケジュール管理のみを依頼する事例等、両者の関係は継続的に維持される場合がある。加藤鷹・しみけん 等のベテラン男優は、長期キャリアの過程で個人事務所化・法人化を経て、自身の活動拠点を独立化する経路を辿った。
主要事務所と業界系列
独立系男優事務所
独立系男優事務所としては、平本一穂が 1987 年に設立したセイリオスが業界の祖型として位置づけられる。2000 年代以降は、グラスホッパーが若手男優の育成・現場供給を専門とする基盤事務所として業界内で広く認知された要出典。これらの独立系事務所は、特定メーカー・特定監督に専属しない汎業界的な男優供給機能を担った。
メーカー系列の男優ネットワーク
クリスタル映像系・エス・ワン系(プレステージ等を含むメーカー連合)・SOD 系等の主要メーカー系列は、独自の男優ネットワークを保有し、自社作品の撮影に必要な男優を内部的に手配する慣行を発達させた要出典。これらメーカー系列内の男優ネットワークは、独立系男優事務所と並存する第二の業界供給チャネルを構成する。
メーカー系列内手配と独立系事務所の併存は、業界全体の男優供給を安定化させる構造的要因として機能してきた。新法施行以降の業界縮小期においても、両系統の併存構造は維持されている。
業務範囲
現場手配と撮影スケジュール管理
男優事務所の中核業務は、所属男優の撮影現場への手配と撮影スケジュールの調整である。メーカー・監督からの男優出演依頼に応じて、事務所内の所属男優の中から適任者を選定・派遣する。撮影日程の調整、現場への移動手配、撮影前後の経費精算等を一括して担当する。
育成と現場経験の供給
若手男優に対する育成機能は、男優事務所の重要な業務範囲である。新人男優は事務所所属期間中に、(1) 撮影現場での技術習得(勃起維持・射精制御・女優との段取り等)、(2) 業界人脈の形成、(3) 監督・メーカーとの信頼関係構築、(4) 自身の職能ブランドの形成、を進める。事務所はこれら育成過程の場を提供し、業界の継続性を支える基盤的機能を担う。
メーカー・監督との交渉
所属男優の出演条件・出演料・スケジュールに関するメーカー・監督との交渉は、事務所が代行する。男優事務所は、若手の出演料を業界相場に基づいて交渉する役割を持ち、男優の労働条件の業界水準維持に寄与する。
引退後のキャリア支援
引退後の男優のキャリア支援は、事務所の倫理的責務として議論される業務領域である。一部の事務所は、引退後の業界外活動・職業転換・著作活動・配信業等への移行を支援する体制を整備しているが、業界全体での標準化はAV 女優向け支援に比して整備が遅れているとされる要出典。
AV 新法施行下の運営変化
2022 年 6 月施行のAV 新法は、業界全般の契約手続き・撮影プロトコルを変更した。男優事務所の運営に対する間接的影響としては、(a) 撮影日程の長期化に対応する男優稼働率の低下、(b) 業界全体の新作制作本数減少に伴う男優出演機会の縮小、(c) 撮影現場での意思確認プロトコル厳格化に対応する男優の現場対応技術の高度化、等が指摘される要出典。
同法施行直後の 2022 年後半から 2023 年にかけて業界全体で新作制作本数が減少した時期があり、男優事務所の業務量にも影響が及んだ。業界の中長期的な再編過程において、男優事務所の業態の存続・縮小・再構成が議論される段階にある。
国際比較
世界の主要諸国における成人向け映像産業の男性出演者マネージメント構造は、各国の業界制度に応じて異なる形態を取る。米国アダルト業界では、男性出演者の多くが独立業務委託(independent contractor)として複数メーカーと直接契約を結ぶ形態が標準的であり、長期所属を前提とする男優事務所は一般化していない。エージェント機能は存在するが、出演ごとの仲介に特化した形態が主流である。
欧州諸国では、国別の労働法制・業界自主規制に応じて多様な業務形態が並存する。日本の男優事務所制度は、若手育成・現場供給・長期所属契約の三機能を統合した独自業態として、世界の成人向け映像産業の中でも特異な位置を占める。
文化的言及
AV 男優事務所を主題的に取り上げた一般文化作品は、女優プロダクションを扱う作品(Netflix シリーズ『全裸監督』(2019)等)に比して少ない。ドキュメンタリー映画『セックスの向こう側〜AV 男優という生き方』(2013、代々木忠監督)には、加藤鷹・しみけん・平本一穂を含む 20 名の男優が出演し、男優事務所の現場機能を間接的に描写する内容が含まれる。
業界内では、平本一穂のセイリオスを始めとする男優事務所代表者の回顧、しみけん『光り輝くクズ仕事論』(2017)、加藤鷹『性愛のイマージュ』(2003)等の男優自身による著作が、男優事務所の機能・現場業務を業界外に伝える資料として継続的に参照されている。
関連項目
参考文献
- 『アダルトビデオ革命史』 幻冬舎 (2009)
- 『全裸監督―村西とおる伝』 太田出版 (2016)
- 『AV 30 年史―日本のアダルトビデオ業界の歩み』 彩流社 (2011)
- 『光り輝くクズ仕事論』 ベストセラーズ (2017)
- 『性愛のイマージュ』 太田出版 (2003)
- 『性風俗産業の社会学』 勁草書房 (2017)
- 『AV出演被害防止・救済法』 法律 第78号 (2022)
別名
- 男優プロダクション
- AV男優エージェンシー
- AV 男優事務所
- AV male actor agency
- 男優事務所