童貞喪失
童貞喪失は、単一の身体的事象ではない。それは長い文化史を通じて、男性のジェンダー規範・通過儀礼・自己同定の制度的場面として、繰り返し再記述されてきた象徴的事象である。
童貞喪失(どうていそうしつ、英: loss of male virginity)とは、性交経験を持たない男性(童貞)が、初めて性交を経験することにより当該状態を脱する事象を指す日本語表現である。「初体験」「童貞卒業」「DT 卒業」「ロストヴァージン」等の表現と相互置換的に用いられる。事象としては個別的・身体的であるが、近代以降の日本社会においては、男性の社会的成熟・通過儀礼・アイデンティティ転換の象徴的場面として、独自の文化的意味を担ってきた。
概要
童貞喪失は、医学的事象としては「性交経験を持つ状態への移行」であり、その指示範囲は性交の定義により変動する。一般用法では、異性との挿入を伴う性交を初めて経験することを指すが、口腔性交・自慰・風俗利用等の経験の含み方については、用法上の解釈が分かれる。1990 年代以降の童貞サブカル圏では、「人妻・恋人との関係を伴う性交を経験していない状態」を指して「仮性童貞」と呼び、当該状態を脱する事象を「真の童貞喪失」とする独自の区別が流通している。要出典
身体事象としての童貞喪失は、客観的指標を欠く。女性側の処女喪失が処女膜の物理的変化により説明されてきた歴史を持つのに対し、男性側の童貞喪失には対応する解剖学的指標が存在しない。この非対称性は、童貞喪失の文化的意味づけが、身体的事実ではなく社会的承認・自己申告の領域に依拠することを規定している。要出典
近現代の日本において、童貞喪失は男性の通過儀礼の一場面として位置づけられる傾向を持ち、当該事象をめぐる文化的言説・サブカル圏の独自展開が複層的に形成されてきた。
語源
「童貞喪失」は、漢語「童貞」(僧侶の戒律としての童子の貞操)に「喪失」(失うこと)を後接した複合語である。「童貞」自体は古代中国の仏教文脈に起源を持つ漢語であり、日本語への移入は仏教伝来と並行して進んだとされる。「喪失」は近代以降に普及した抽象名詞であり、「童貞喪失」の語形は近代以降の翻訳語的造語として成立したと考えられる。
ヨーロッパ語における対応表現は loss of virginity であり、本来は男女ともに用いられる表現であるが、日本語への翻訳・受容過程では、女性側の「処女喪失」と男性側の「童貞喪失」を対概念として並列させる用法が定着した。「ロストヴァージン」は lost virgin の和製英語的転用であり、1980 年代以降の若者文化・恋愛雑誌等で多用された語形である。要出典
口語表現としての「卒業」「童貞卒業」「DT 卒業」は、童貞性を「学校段階のような通過すべき期間」として戯画化する隠喩的用法であり、1990 年代以降の若者文化・サブカル圏で定着したスラングである。当該語法は、童貞期間を一種の「学年」として外在化することで、童貞喪失をユーモア交じりの達成事象として処理する文化的機能を持つ。
歴史
前近代における通過儀礼
前近代日本における男性の初体験は、地域・身分・時代により多様な形態を取った。江戸期には、町人層の男性が遊郭・花街等の遊興空間で初体験を経験する慣習が一定程度存在し、武士・農民層では地域共同体内部の婚姻前後の関係を通じた初体験が観察された。井原西鶴の浮世草子等の近世文学には、遊郭通いを通じた若い男性の性的成熟が描写される事例が見られる。
近世文学における「廓通い」「色道」の言説は、男性の性的成熟を文化的洗練の獲得と結びつける独特の意味体系を形成していた。当該意味体系の中で、童貞喪失は単なる性的経験の獲得ではなく、遊里の規範・粋・色道の作法を学ぶ文化的入門の一場面として位置づけられた。要出典
近代における意味変容
明治期以降の近代化過程では、欧米のジェンダー観・性道徳の翻訳概念として、童貞・処女の対概念の使用が拡大した。キリスト教的・近代的家族規範の導入により、婚前貞操の理想が男女ともに説かれる一方で、現実の社会慣習としては、男性の婚前性交・遊郭通いに対する社会的寛容が長く存続した。
20 世紀前半の日本では、徴兵制下の若年男性の性的経験を入営前後の集団的場面に組み込む文化的慣習が観察され、軍隊内部・軍隊周辺の性風俗空間が、若年男性の童貞喪失の場として機能した記録が残されている。当該慣習は、童貞喪失を集団的・通過儀礼的な事象として制度化する側面を持っていた。要出典
戦後から高度成長期
戦後の日本では、童貞喪失をめぐる慣習が大きく変容した。1950 年代から 1960 年代にかけては、男性の婚前性交渉の是非をめぐる議論が女性誌・男性誌・社会論壇で展開され、童貞喪失の場・時期・相手等が、社会的議論の対象となった。高度経済成長期の都市化・核家族化と並行して、若年男性の童貞喪失は、地域共同体的な慣習から離脱し、個人的・恋愛関係的な事象へと再編されていった。
1970 年代以降の性意識の自由化・恋愛結婚の一般化により、童貞喪失は「恋愛関係の進展に伴う自然な事象」として位置づけ直される傾向を強めた。当該時期の若者文化では、初体験の年齢・場所・相手をめぐる個人的物語が、自己同定の重要な構成要素として語られるようになった。
1990 年代以降のサブカル展開
1990 年代後半以降、童貞喪失はサブカル圏で独自の文化記号として再領有された。同時期の同人誌・エロ漫画・エロゲ等の表現分野では、童貞主人公の童貞喪失を物語の中核に据える定型構成が広範に流通し、「童貞卒業もの」と呼ばれる独自のジャンル系統が形成された。
「DT 卒業」「童貞卒業」「童貞ハンドブック」(童貞喪失のための手引きを戯画化した書名・記事題名等で頻出する語形)等の派生語法・派生作品が、当該時期のサブカル圏で多産された。「素人童貞」(風俗利用経験はあるが、素人女性との性交経験のない状態)は、童貞喪失の解釈をめぐる独自の区別として、2000 年代以降のサブカル圏で広く流通している語形である。要出典
統計的状況
日本の若年男性の性経験率に関する大規模調査として、日本性教育協会(JASE)による「青少年の性行動全国調査」(おおむね 6 年ごとに実施)がある。当該調査は 1974 年以降継続実施されており、若年男女の初体験の年齢・場・相手等の経年変化を追跡している基礎資料である。
複数年次の調査結果を通覧すると、日本の若年男性の性経験率は、1990 年代後半から 2000 年代初頭にピークを示した後、2010 年代以降は低下傾向を示している。大学生男性の性経験率は、調査時期により変動はあるものの、近年は前世代と比較して相対的に低い水準で推移していることが報告されている。要出典
当該動向は、若年層の童貞喪失の遅延・回避傾向として社会学的に分析されており、結婚意欲の低下・恋愛関係の希薄化・経済的不安定・娯楽の多様化等の社会要因との関連が議論されている。社会学者赤川学等のセクシュアリティ研究は、当該傾向を近代家族規範の解体・性的活動の個人化という長期的歴史過程の延長として位置づけている。
ジェンダー的非対称性
童貞喪失と処女喪失は、表面的には対称的な対概念に見えるが、社会的扱いには長い歴史的非対称性がある。
第一に、身体的指標の非対称性がある。女性側の処女喪失が処女膜の物理的変化により説明されてきた歴史を持つのに対し、男性側の童貞喪失には対応する解剖学的指標がない。当該非対称性は、童貞喪失の文化的意味づけが社会的承認・自己申告の領域に依拠することを規定する。
第二に、社会的扱いの非対称性がある。処女喪失が女性の婚姻適格性・家族の名誉等の文脈で重視される歴史を持つ一方で、童貞喪失は男性の社会的成熟・通過儀礼の達成として、肯定的・積極的に語られる傾向を持ってきた。当該非対称性は、近代以降の家族制度・性道徳・男女の役割分担を反映する文化記号の歴史的構造として、ジェンダー史研究の対象となっている。
第三に、物語化の非対称性がある。男性の童貞喪失は社会的話題・サブカル表現の中核モチーフとして反復的に物語化される一方で、女性の処女喪失は私的領域に閉じ込められ、当事者女性の視点からの語りが歴史的に抑制されてきた経緯を持つ。フェミニズム研究・ジェンダー史研究は、当該非対称性を近代の性別役割秩序の典型的事例として批判的に検討している。要出典
サブカル類型
成人向け表現分野で童貞喪失が組み込まれる類型として、以下の構図が定型化している。
童貞喪失主導型の物語構成では、童貞主人公が経験豊富な女性キャラクター(痴女・人妻・年上女性等)から「初体験」を提供される筋立てが頻出する。当該構成は、男性主人公の側に童貞性、女性キャラクターの側に経験豊富な性質を割り当てる役割の非対称性を伴う。
風俗童貞喪失型の物語構成では、童貞主人公がソープランド・デリヘル等の性風俗店利用を通じて童貞喪失を経験する筋立てが描写される。当該構成は、近代以降の日本で長く存続した「風俗での童貞喪失」の文化慣習を物語化したものであり、賛否両論を伴う独特の文化的位置を持つ。
恋愛童貞喪失型の物語構成では、長期的な恋愛関係の進展の末に童貞喪失が達成される筋立てが描写される。当該構成は、童貞喪失を恋愛の「ゴール」として位置づける近代的恋愛観を反映する。
派生概念・派生語
童貞喪失をめぐる派生語として、以下が並列に流通する。
- DT 卒業:童貞のローマ字頭文字を用いた略語的表現
- 童貞卒業:学年隠喩を用いた口語的表現
- ロストヴァージン:lost virgin の和製英語的転用
- 仮性童貞:風俗利用経験はあるが、恋愛関係上の童貞性が残る状態を指すスラング
- 素人童貞:風俗利用経験はあるが、素人女性との性交経験のない状態を指すスラング
- 童貞貴族:童貞性を維持し続ける状態を肯定的に再領有するスラング
関連項目
参考文献
- 『童貞の現代史』 中央公論新社 (2003)
- 『童貞のジェンダー史』 亜紀書房 (2014)
- 『セクシュアリティの社会学』 岩波書店 (1996)
- 『性愛の社会史』 勁草書房 (1999)
- 『セクシュアリティの歴史社会学』 勁草書房 (1999)
- 『若者の性白書 第 9 回 青少年の性行動全国調査報告』 小学館 (2019)
- 『エロティシズム』 中公文庫 (1984)
別名
- 卒業
- 童貞卒業
- DT 卒業
- 男性初体験