心中
心中(しんじゅう)とは、相互に深い情愛で結ばれた二人(主に男女)が、現世での添い遂げが叶わぬことを悟り、合意のうえで同時に自死する行為の総称である。語源は「心の中」を意味する近世前期の語に由来し、当初は誓詞・断指・入墨など男女の愛情の証立て一般を指したが、近松門左衛門の浄瑠璃『曾根崎心中』(1703)の流行を契機に、合意自死の意でほぼ固定化した。江戸時代の遊廓を主要舞台として文芸化が進み、享保期には幕府の禁圧の対象となった。本項では、語誌と社会的実態、近世文芸における心中物の展開、幕府の取り締まり、近代以降の言説的変容、現代における位置づけを順に扱う。
概要
心中という現象は、近世日本において単なる二人の自死ではなく、社会的・宗教的・美的な意味体系のなかに編み込まれた特異な行為であった。佐伯順子は『遊女の文化史』(1987)において、近世の心中を「遊里という擬制的な恋愛空間でしか実現し得なかった『いろ』の極限的形態」として位置づけ、家制度に規定された婚姻と対比している。すなわち、家督と血統の維持を旨とする武家・町人の婚姻制度のなかで、当事者の合意と情愛のみを根拠とする男女関係は、結ばれる場を持ち得なかった。心中はその不可能性を、現世からの離脱という極端な形で乗り越えようとする実践であったといえる要出典。
語の歴史的展開も複雑である。井原西鶴『好色二代男』(1684)など 17 世紀後半の作品では、「心中」は男女が互いの真情を示すための行為一般、とりわけ起請文の交換、髪切り、爪剥ぎ、刺青(入れぼくろ)、断指などを総称する語として用いられた。これが心中立て(しんじゅうだて)である。心中立ての極北として「相対死(あいたいじに)」が位置づけられ、その語が次第に「心中」の語と重なり、ついには両語が同義になっていった経緯は、武部敏夫『近世心中史』が詳述するところである。近松の浄瑠璃以降、「心中」は合意自死そのものを指す語として一般化したが、江戸期の文献では文脈により旧義(誓詞・刻印)と新義(自死)が共存する。
語源と概念史
「心中」の語は中世末期から近世初期にかけての遊里言葉として登場する。「真実(しんじつ)」と語義的に近接する概念であり、男女の真情の証(あかし)としての行為を意味した。色道書『色道大鏡』(藤本箕山、1678)は心中立ての具体的な作法を体系化しており、客と遊女の間で取り交わされる起請文の様式、約定の段階、破約への制裁などが克明に記録されている。
これに対して、「相対死」は文字通り男女が相対して同時に死ぬことを意味し、当初は心中立ての一形態として位置づけられた。しかし元禄期(1688-1704)以降、相対死の事例が都市部で頻発するようになると、両語の指示対象は急速に重なっていった。佐伯順子は『「いろ」と「あい」の文化史』(1988)において、近世前期の「いろ」(身体的・遊戯的な情愛)が、心中という極端な実践を通じて近代的「あい」(精神的・排他的な恋愛)へと接続する過渡的位相にあったと論じている。
近世後期になると、心中は遊女と客の関係に限定されない、町人男女・町人と奉公人・武家娘と町人など、多様な階層間の事例にまで拡大した。この拡大の過程で、心中は「家」と「いろ」の構造的衝突が極限化したときに発動する社会装置としての側面を強めていった要出典。
近世文芸における心中物
近松門左衛門と『曾根崎心中』
竹本座の座付き作者であった近松門左衛門(1653-1725)は、1703 年(元禄 16 年)4 月に大坂堂島新地の醤油商の手代徳兵衛と、北新地天満屋の遊女お初の心中事件が起こると、わずか一月余りで本作を脚色し、5 月 7 日に世話浄瑠璃『曾根崎心中』として竹本座で初演した。本作は実在事件を題材とする世話物の嚆矢として、また心中物というジャンルの起点として、近世演劇史における決定的な作品となった。
『曾根崎心中』の道行(みちゆき)の段、すなわち「この世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えてゆく、夢の夢こそあはれなれ」と唱われる詞章は、心中の道行をそれまでの軍記的・宗教的修辞から解放し、町人男女の悲恋の極致として再構成した。本作の成功により竹本座は経営的危機を脱し、世話浄瑠璃が時代浄瑠璃と並ぶ大坂芝居の主軸となった。
心中物の展開
『曾根崎心中』以後、近松は『心中重井筒』(1707)、『心中刃は氷の朔日』(1709)、『心中万年草』(1710)、『心中宵庚申』(1722)、そして円熟期の代表作とされる『心中天網島』(1720)など、十数編に及ぶ心中物を執筆した。とりわけ『心中天網島』は、紙屋治兵衛と遊女小春の心中を、治兵衛の妻おさんとの三角関係を軸に劇化した作品で、家制度のもとで自己決定権を持たぬ女たちの連帯と犠牲を浮かび上がらせる構造となっている。
近松以外の浄瑠璃作者・歌舞伎作者も心中物を量産した。紀海音『淀鯉出世滝徳』、紀上太郎『八重桐廓噺』など、上方を中心に心中物の作劇法が確立された。これらの作品の特徴は、(1)実在事件の比較的速やかな脚色、(2)道行の詞章による旅程と心象の重層化、(3)遊女と客という階層的非対称関係を「真情」によって克服する構造、(4)三業(揚屋・茶屋・廓)の地誌的描写、にあった。
浄瑠璃から歌舞伎へ
享保期以降、人形浄瑠璃の心中物は歌舞伎へも翻案され、両ジャンルの相互浸透が進んだ。歌舞伎では生身の役者が遊女と客を演じることで、観客の心中事件に対する情感的同一化はいっそう強まった。観客が事件直後に芝居小屋に駆けつけ、舞台上で再演される心中に涙する現象は、近世都市の独特な集合的経験となった。
享保の禁圧と心中刑
享保期の心中の頻発
8 代将軍徳川吉宗の享保改革期(1716-1745)、都市部における心中事件は社会問題化するほどに頻発した。原因は複合的であり、近松ら作家による文芸化が事件を「美化」したこと、遊廓における借金漬けの遊女と男との関係が解消困難であったこと、町人層の経済的窮乏が増大したことなどが指摘される。同時代の随筆『塩尻』『折たく柴の記』などにも、心中の風潮への戸惑いが記録されている。
1722 年の禁令
享保 7 年(1722)、幕府は「相対死取扱の儀」を布令し、心中に対する苛烈な処罰方針を定めた。具体的には、(1)心中を扱った浄瑠璃・歌舞伎の上演および出版物の発禁、(2)心中の語そのものの忌避(公文書では「相対死」を用いる)、(3)心中して双方とも死亡した場合は遺骸を取り捨てとし葬儀を許さず、(4)一方が生き残った場合は生存者を死罪、(5)双方とも生き残った場合は晒(さらし)のうえ非人手下とする、という段階的処分を制度化した。
心中は当時の刑法概念では「相対死」として殺人と自殺の中間に位置づけられ、合意自死であっても双方を未遂殺人犯と扱う論理が採用された要出典。これは武家社会における殉死禁令(寛文 3 年・1663 年)と通底する論理、すなわち「死をもって主君や恋人に殉じる」という美的感情そのものを統治倫理から排除しようとする幕府の姿勢を反映している。
禁圧の実効性
しかし禁圧は完全な実効を持たなかった。心中物は外題を変え、舞台を時代物に移し替え、登場人物を歴史上の人物に仮託するなどの偽装を経て上演され続けた。1746 年の『菅原伝授手習鑑』、1747 年の『義経千本桜』、1748 年の『仮名手本忠臣蔵』など、いわゆる三大名作も、その作劇には心中物の様式が伏在しているとされる。出版界もまた、写本・地本の形で心中物の流通を維持した。
心中の社会学的位置づけ
心中という現象を、近世日本に特異な社会的死の形態として比較史的に位置づける試みは、複数の角度からなされてきた。
殉死との差異
武家社会における殉死(じゅんし)は、主君の死に際して家臣が後を追うことを指し、近世前期には大名家の重臣の自死として制度化された慣行であった。1663 年の殉死禁令以降は減少したが、その美的理想は『葉隠』など武士道言説の中核に残存した。殉死が垂直的・主従的な義の論理に基づくのに対し、心中は水平的・対等な情の論理に基づく。佐伯順子は、心中が殉死の美意識を町人男女の恋愛関係に転位した近世特有の現象であると論じている。
恋愛の心中
近世後期には、遊廓を介さない町人男女の心中事例が増加した。武家娘と町人男、奉公人と主家の娘、農村部の若者男女などの心中は、家制度と婚姻決定権の不在という構造的問題に起因する。柳田国男は『先祖の話』(1946)等の文脈で、近世後期の心中増加が農村共同体の解体と都市的恋愛規範の浸透の結節点に位置することを示唆している要出典。
近代の情死
明治以降、心中は「情死(じょうし)」「ラブシュイサイド」とも呼ばれ、新聞メディアの発達により大量の事例が報道されるようになった。1908 年の有島武郎・波多野秋子事件、1923 年の生田春月の入水自殺、1948 年の太宰治・山崎富栄の入水心中、1952 年の有馬頼義事件など、文壇・芸能界における心中事件は時代を象徴する出来事として語られ続けた。これらの事例は近世の遊廓心中とは社会的背景を異にするが、当事者と社会双方が近世以来の心中表象を参照していたことは確かである。
近世遊廓文化と心中
吉原・新町・島原という三大遊廓は、心中の主要な舞台となった。吉原では中之町・揚屋町を、新町では九郎右衛門町を、島原では下之町を出発点とする道行が、文芸作品の常套となった。遊女は年季奉公という名目で実質的な拘束下にあり、自由意志による恋愛と婚姻が制度的に不可能であったため、馴染み客との関係が深まったときに残された選択肢の一つが心中であった。花魁階層の心中は、廓内で「足抜け」の一形態として処理される一方、文芸的には悲恋の極致として聖別される、二重の評価のもとに置かれた。
井原西鶴『好色一代女』(1686)の主人公の遍歴にも、心中未遂の挿話が含まれている。西鶴は心中を「不実」の対極にある「真情」の証として描く一方、その悲劇性を情緒的に増幅することはせず、町人的合理性のなかに置き直している点で、近松と対照的である。
明治以降の心中言説
明治 30 年代(1897 年以降)、尾崎紅葉『金色夜叉』(1897-1902)は、心中を直接の主題としないものの、近代的恋愛と金銭・家制度の対立を描き、心中物の系譜を継承する作品として広く読まれた。同時期、徳冨蘆花『不如帰』(1898-1899)は結核による別離の悲劇を描き、心中物の様式を病理的別離に移し替えた。
夏目漱石『こころ』(1914)は、明治の精神を背負った「先生」の自死を描く点で、近世心中物とは異なる思想的位相にあるが、Kと「先生」の関係、お嬢さんを介した三角関係、最終的な自死という構造には、心中物の作劇法の遠い反響が認められる。
詩人の生田春月(1892-1930)は、瀬戸内海航路の船から投身自殺し、その死は同時代の文壇に衝撃を与えた。生田の死は単独自死であったが、メディア報道は彼の死を「現世への絶望」と結びつけて語り、心中的修辞の援用が顕著であった。1948 年の太宰治の心中は、戦後社会における旧来的心中表象の最後の大規模再演として論じられることが多い。
戦後の言説と現代の認識
戦後日本社会において、心中はもはや文化的に肯定可能な行為としては語られなくなった。1950 年代以降の社会学的・精神医学的研究は、心中を主に「無理心中」(一方が他方を殺害して自死する場合)と「合意心中」(双方の合意による場合)に区分し、前者を加害行為として、後者を病理的・社会的問題として扱う方向に進んだ。
近年では「拡大自殺」「家族心中」「介護心中」など、配偶関係を超えた合意・非合意自死の類型が公衆衛生の課題として論じられている。これらは近世的「心中」の概念とは社会的文脈を異にするが、語の連続性を通じて近世以来の文化的記憶が現代の自死現象の表象に作用していることは確かである。
文芸研究・近世史研究においては、心中を単純に「美化」あるいは「病理化」することなく、近世社会の構造的矛盾の表出として理解しようとする視点が定着している。武部敏夫『近世心中史』をはじめとする実証研究は、奉行所文書・寺社縁起・町触などの一次資料に基づき、心中事件の地理的・階層的分布を明らかにする方向で進展している。
関連項目
参考文献
- 『曾根崎心中』 (1703)
- 『心中天網島』 (1720)
- 『近世心中史』
- 『遊女の文化史』 中公新書 (1987)
- 『「いろ」と「あい」の文化史』 中央公論社 (1988)
- 『金色夜叉』 (1897-1902)
- 『こころ』 (1914)
- 『御触書寛保集成』 岩波書店 (1934)
別名
- 情死
- 相対死
- double suicide
- lovers' suicide