春本史(はるほんし)とは、近世日本の好色本・艶本に淵源を持ち、近代の戯作・地下出版を経て、戦前期のエロ・グロ・ナンセンス出版、戦後のカストリ雑誌、さらに昭和後期の官能小説に至る、日本語圏における性愛主題の書籍メディアの通史を指す概念である。狭義には文字主体の艶本(春画本に対する文章本)の系譜を扱い、広義には春画を含む性表現出版物全般の歴史を含む。日本文学史・出版史・性風俗史の交差領域として、近世以降の日本文化を理解するうえで不可欠な研究対象となっている。
概要
春本(しゅんぽん・はるほん)とは、性愛・性行為を主題とする書籍の総称である。近世においては「好色本」「艶本(えんぽん)」「秘画本」など多様に呼称され、絵を主体とする春画本(枕絵)と、文章を主体とする好色物・艶本との間に明確な分業はなかった。語源的には「春」が古来より中国・日本において性愛の婉曲表現として用いられてきた語彙連関に由来し、「春画」「春情」「春色」などと同じ系譜に位置づけられる。
春本史は、(1) 近世前期の好色本の確立(17 世紀)、(2) 近世後期の艶本・洒落本の隆盛と弾圧(18–19 世紀)、(3) 明治・大正期の地下出版と猥褻概念の成立、(4) 昭和初期のエロ・グロ・ナンセンス出版、(5) 戦後カストリ雑誌とポルノ書籍の大衆化、(6) 1960 年代以降の官能小説の確立、という大きく六期に区分されるのが一般的である要出典。
近世前期 ── 好色本の成立
仮名草子から浮世草子へ
17 世紀前半の仮名草子の段階では、性愛は教訓や笑話の素材として現れる程度であった。これが質的に転換するのが、井原西鶴(いはら・さいかく)の登場である。1682 年(天和 2 年)に刊行された井原西鶴の『好色一代男』は、主人公世之介の七歳から六十歳までの「色道」の遍歴を描いた長編小説であり、後に「浮世草子」と呼ばれる文芸ジャンルの起点とされる。同書は性愛を中心主題に据えながら、卑俗な肉体描写ではなく、遊里文化・町人風俗の写実的描写と機知に富む文体によって構成された点に特徴がある。
西鶴はその後、『好色五人女』(1686)、『好色一代女』(1686)、『男色大鑑』(1687)など好色物を相次いで発表した。これらは女色・男色双方を扱い、貞女物・遊女物・若衆物といった主題類型を確立した。西鶴の好色本は単なる猥褻物ではなく、町人社会の風俗誌的記録としての性格を強く持つ点で、後代の春本一般と区別される文学的達成として評価されている。
八文字屋本と量産化
西鶴の死後、京都の書肆・八文字屋自笑は江島其磧らを起用し、好色物を量産した。これらは「八文字屋本」と総称され、西鶴の文学性を希釈する一方、好色物を商業出版の中心的ジャンルとして定着させた。同時期に絵本主体の春画本(枕絵本)も発展し、菱川師宣・西川祐信らが手掛けた絵入り艶本が広く流通した。
近世後期 ── 洒落本・艶本の隆盛と寛政・天保の弾圧
洒落本と人情本
18 世紀後半、江戸を中心に「洒落本」が流行した。山東京伝らの洒落本は遊里(吉原など)を舞台とし、客と遊女のやり取りを会話体で描いたもので、直接的な性描写よりも「通(つう)」の美学を軸とする独自の戯作ジャンルである。1791 年(寛政 3 年)、寛政の改革を主導した松平定信は風俗を乱すとして洒落本を弾圧し、京伝は手鎖五十日の刑に処せられ、版元の蔦屋重三郎は身代半減の処分を受けた。
19 世紀に入ると、為永春水らの「人情本」が女性読者層を主な対象として流行した。人情本は男女の情愛を主題とし、性的描写を含むものも少なくなかった。1842 年(天保 13 年)、天保の改革を主導した水野忠邦は人情本を風俗壊乱として弾圧し、春水は手鎖の刑を受け、その失意のうちに病没した。
艶本の隠密刊行
公的書肆が版元として名を載せられない艶本(本格的な性描写を含む書籍)は、版元名・著者名を秘した「秘本」として地下流通した。北尾重政・喜多川歌麿・葛飾北斎・歌川国貞ら一流の絵師がこれに筆を執り、文字本においても式亭三馬・十返舎一九ら有名戯作者が無記名で関与したと推定される作品群が伝存する。これらは正規の流通網に乗らず、貸本屋・行商を通じて頒布された要出典。
明治・大正期 ── 戯作の終焉と地下出版
明治の戯作と取締強化
明治維新後、戯作の伝統は仮名垣魯文・染崎延房らに継承されたが、1875 年(明治 8 年)の新聞紙条例、1880 年(明治 13 年)の刑法(旧刑法)、1893 年(明治 26 年)の出版法、1907 年(明治 40 年)の現行刑法 175 条(わいせつ物頒布罪)の整備により、性表現に対する法的規制が体系化された。これに伴い、近世的な艶本の流通は困難となり、性愛主題の書物は地下出版・私家版・写本として残存する形態に移行した。
自然主義文学と猥褻論争
文学史の主流においては、田山花袋『蒲団』(1907)以降の自然主義文学が、性的事象を文学的主題として扱う試みを行った。永井荷風『ふらんす物語』(1909、発禁)、谷崎潤一郎の作品群、徳田秋声らの作品は、性愛描写と芸術性の境界をめぐる論争の中核を形成した。同時期、丸木砂土・小峰大羽らによる艶本研究・性風俗史研究が、地下出版の枠内で蓄積された。
昭和初期 ── エロ・グロ・ナンセンスの時代
1920 年代後半から 1930 年代初頭の都市文化において、「エロ・グロ・ナンセンス」と総称される風潮が出版界を席巻した。梅原北明らによる『変態・資料』『犯罪科学』『グロテスク』などの雑誌、酒井潔の艶本研究、桜井書店・文芸資料研究会の限定出版などが、性風俗・猟奇・倒錯を主題とする出版を、相対的に高い印刷品質と知識人読者層に向けて展開した。
これらは戦前期日本のモダニズム都市文化の一断面を成し、後の戦後性文化・大正ロマン研究の重要な対象となっている。1930 年代後半以降、軍国主義の進行と治安維持法・出版警察の強化により、エロ・グロ・ナンセンス出版は壊滅した。
戦後 ── カストリ雑誌から官能小説へ
カストリ雑誌期(1946–1955)
1945 年の敗戦と GHQ 占領下における出版自由化を背景に、1946 年頃からカストリ雑誌と総称される低品質紙刷りの通俗雑誌群が大量発生した。『猟奇』『りべらる』『奇譚クラブ』『夫婦生活』などが代表誌として知られ、エロ・グロ・ナンセンスの戦前期からの伝統を継承しつつ、占領下の社会状況に固有の主題(街娼、闇市、復員兵)を加えた独自の出版文化を形成した。
これらの雑誌は短編小説・読み物・実話・グラビアを混在させた構成を取っており、文字主体の春本というより複合メディアであるが、戦後の性表現出版の起点として春本史の脈絡に位置づけられる。
三流劇画誌と官能小説の確立
1960 年代に入り、用紙事情と読者層の安定化を背景として、文字主体の性愛小説のジャンルが「官能小説」として確立した。富島健夫・川上宗薫・宇能鴻一郎・団鬼六らがこれを代表する作家として活躍し、新書判・文庫判の専門レーベル(双葉社・徳間書店等)が整備された。官能小説は、近世の好色物・艶本以来の文字による性愛叙述の伝統を、戦後大衆出版の様式の中で再編成したジャンルとして理解される。
団鬼六『花と蛇』(1962)以降の SM 系官能小説、宇能鴻一郎による「私小説」風官能、富島健夫の青春官能小説など、ジャンル内部にも多様な分化が生じた。これらは雑誌『小説現代』『問題小説』『小説宝石』等の中間小説誌の連載媒体を経由し、後に文庫化される流通経路を形成した。
三流エロ劇画誌・ロリコンブームと文字メディアの後退
1970 年代後半以降、エロ劇画誌・エロ漫画・ビニ本・成人向けビデオなど、視覚メディアが性表現出版の主流を占めるに至った。文字主体の春本(官能小説)は、依然として固定的な読者層を維持しつつも、出版界全体に占める比重を低下させていった。
文化史的意義
春本史は、近世以降の日本における性愛言説の歴史的展開を、出版メディアの形態変遷とともに跡づけることを可能にする領域である。井原西鶴に始まる文字による性愛叙述の伝統は、寛政・天保の弾圧、明治の刑法 175 条による公的領域からの排除、昭和初期のモダニズム的再興、戦後の大衆化を経て、現代の官能小説・成人向け文芸へと連続している。
近年の出版史研究では、長田篤『艶本研究』(1962)・『好色本の世界』(1996)、永久保陽子による女性向け性表現史の研究、安田理央『日本エロ本全史』(2019)など、ジェンダー史・メディア史の観点からの体系的研究が進展している。早稲田大学現代政治経済研究所、国立国会図書館、明治大学現代マンガ図書館などには、艶本・カストリ雑誌・官能小説のコレクションが体系的に保存されており、研究公開も進められている。
一方、近世艶本の多くが匿名・無記名で刊行された事情、戦前期艶本研究家(梅原北明・斎藤昌三ら)の文献に固有の偏向、戦後カストリ雑誌における当事者の人権配慮の欠如など、史料的・倫理的な留保が要求される領域でもある。
関連項目
参考文献
参考文献
- 『好色本の世界』 河出書房新社 (1996)
- 『艶本研究』 有光書房 (1962)
- 『ポルノグラフィーの女たち』 青弓社 (2005)
- 『やおい小説論―女性のためのエロス表現』 専修大学出版局 (2005)
- 『日本エロ本全史』 太田出版 (2019)
- 『近世風俗志(守貞謾稿)』 (1837-1867)
- 『好色一代男』 (1682)
- 『戦後出版文化史』 論創社 (2007)
別名
- 艶本史
- 春画本史
- エロ本史
- history of erotic books in Japan