東京・銀座の煉瓦街、夕暮れに灯るガス灯。断髪に丸眼鏡、ワンピースの裾を風にひるがえして歩く若い女がいる。同行の男は背広にハンチング、二人は珈琲(コーヒー)と書かれた看板の店に入っていく。店内では蓄音機がジャズのレコードを鳴らし、女給(じょきゅう)が客の卓に身を寄せて煙草に火を点ける。1925 年(大正 14 年)頃の銀座、いわゆる「大正ロマン」の風景である。だがこの華やかなモダニズムの背後には、恋愛をめぐる激しい思想闘争、産児調節をめぐる医学・社会運動、女性の身体と性をめぐる新たな表象の生成があった。
大正ロマン(たいしょうろまん)とは、大正期(1912-1926)の日本において、文学・美術・風俗・思想の各領域に展開した文化潮流の総称である。「ロマン」の語は西洋語 romantic(英語)・roman(フランス語、長編小説の意)に由来する大正期の造語で、明治期の堅牢な近代化路線とは異なる、感情・個性・自由恋愛・耽美といった主題を前景化した文化的態度を指す。本項では、大正ロマンの語源、政治・経済的背景、モダンガール(モガ)とカフェー文化の展開、自由恋愛論と産児調節運動、エロ・グロ・ナンセンス前史としての性表現の動向、社会主義者の自由恋愛実践を扱い、近代日本における性文化の重要な転換点としての大正期を再検討する。
概要
大正ロマンは、明治期の国家主義的近代化と、昭和戦前期の軍国主義的統制とのあいだに位置する、相対的に自由で享楽的な文化空間を指す。第一次世界大戦(1914-1918)による経済的好況、都市化の進展、メディア産業の拡大、女性の社会進出の萌芽が複合的に作用し、新たな大衆消費文化が出現した。
性文化の観点から見ると、大正ロマンは三つの転換を孕む。第一に、「恋愛」概念の社会的浸透であり、明治の「色」「情」に代わって西洋的なロマンティック・ラブが知識人層を中心に受容された。第二に、女性の身体表象の変化であり、断髪・洋装・職業婦人といった新たな女性像が登場し、これに対応する視覚文化(挿絵・ポスター・写真)が発達した。第三に、性科学・産児調節・性教育の輸入であり、エリス、フロイト、サンガーらの著作が翻訳・紹介され、性が学問的対象として論じられる素地が築かれた。
これらは昭和初期の「エロ・グロ・ナンセンス」期(1929 年前後)へと連続し、戦後のカストリ文化・1960 年代のセクシャル・レボリューションの遠い前史を成す。
語源と用語史
「ロマン」の語の輸入
「ロマン」(roman)は、フランス語で長編小説、転じて詩情・空想・恋愛の主題を指す語で、19 世紀末から日本の文学者・知識人によって用いられた。森鷗外(1862-1922)は「ロマン主義」を「浪漫主義」と訳し、「浪漫」の漢字表記を考案したとされる要出典。「浪漫」の表記は北原白秋・与謝野鉄幹らの新詩社系の文学者によって愛用され、明治末期から大正期にかけて広く流通した。
「大正ロマン」という語自体は、大正期に同時代用語として確立していたわけではなく、戦後に大正期の文化を回顧的に括る用語として一般化したとされる。ただし「ロマン」「浪漫」の語は大正期に頻用されており、後の総称の元となった。
類義語との関係
「大正ロマン」と類似の用語として、「大正モダン」「大正デモクラシー」「大正アヴァンギャルド」がある。「大正モダン」はより都市風俗・建築・デザイン領域を指す傾向があり、「大正デモクラシー」は政治思想史的な用語として吉野作造の民本主義などを指す。「大正アヴァンギャルド」は美術領域での前衛運動(MAVO・三科など)を指す。「大正ロマン」はこれらより広く、生活感覚・情緒的雰囲気を含む包括的呼称として用いられる。
政治・経済的背景
第一次世界大戦景気
第一次世界大戦中、日本は戦地から地理的に離れていたため、欧州諸国の産業空白を補う形で輸出を急増させた。鉄鋼・造船・化学工業の急成長により、いわゆる「成金」が大量に発生し、戦前の経済格差を一気に拡大させた。神戸・大阪・東京の都市部に新興富裕層が集積し、彼らの消費活動が新たな娯楽産業の基盤を成した。
1923 年(大正 12 年)9 月の関東大震災は、東京の旧来的な街並みを破壊する一方で、再建過程において鉄筋コンクリート建築・百貨店・カフェー・劇場といった新たな都市空間を生み出す契機となった。震災後の銀座再建は、まさに大正ロマンの典型的風景の生成と重なる。
メディア産業の拡大
大正期は活字メディアが爆発的に拡大した時代でもある。1923 年創刊の『キング』(講談社)、1925 年創刊の『主婦之友』『婦人倶楽部』など、大衆雑誌・婦人雑誌が次々と創刊され、発行部数 100 万部級の媒体が出現した。映画(活動写真)もサイレントからトーキーへの過渡期にあり、浅草・銀座の映画館は都市娯楽の中心的位置を占めた。
メディアの拡大は、新たな性表象の流通基盤を成した。婦人雑誌の挿絵、映画ポスター、絵葉書などに、「モダンガール」「職業婦人」「女給」のイメージが繰り返し描かれ、視覚文化として定着した。
モダンガール(モガ)とモダンボーイ(モボ)
モガの登場
「モダンガール」(略称モガ)は、1920 年代半ばから後半に登場した新たな女性像の総称である。断髪(ボブカット)・洋装(ワンピース、スカート)・洗練された化粧・自由な男女交際を特徴とし、東京・大阪などの都市部で目立つ存在となった。1924 年(大正 13 年)前後から新聞・雑誌で「モダンガール」の語が頻出し、北澤楽天らの諷刺画家がモガを戯画化した。
モガは、それまでの「良妻賢母」的な女性像と対比される存在として、しばしば批判の対象ともなった。新聞コラムでは「モダンガール=軽薄」「淫蕩」とする論調が見られ、社会的脅威としての女性像が形成された。一方、女給・タイピスト・電話交換手・百貨店店員といった職業婦人としての女性は、大正期に急増しており、モガはその一部を象徴的に誇張した像でもあった。
モボの登場
「モダンボーイ」(略称モボ)はモガの男性版として、ロイド眼鏡・ハンチング帽・三つ揃いスーツ・ステッキを身につけ、銀座を闊歩する都市的男性像を指した。モボはモガと対をなす視覚的記号として、絵葉書・諷刺画・小説挿絵に登場した。
銀座の街頭ファッション
1925 年(大正 14 年)、画家の森本厚吉が銀座の通行人の服装を統計的に観察した結果、洋装率は男性で 67%、女性で 1% にとどまっていたとされる要出典。すなわちモガは数のうえでは少数派であり、銀座という特定の街頭において観察される視覚的事象として誇張された。これは大正ロマンが、現実の風俗ではなく、表象上の風俗として構築された側面を示す。
カフェー文化と女給
カフェーの起源
「カフェー」(café)は、明治末期に日本に輸入された西洋式の喫茶・飲食店で、当初は文学者・知識人の集う文化的空間であった。1911 年(明治 44 年)に銀座で開業した「カフェー・プランタン」「カフェー・ライオン」「カフェー・パウリスタ」が初期の代表である。しかし大正期から昭和初期にかけて、カフェーは性格を大きく変えた。
カフェーの風俗化
1923 年の関東大震災以後、カフェーは女給(ウェイトレス)の接客性を前面化させた業態へと転換した。1929 年(昭和 4 年)頃、大阪のカフェー「赤玉」が「サービス・ガール」と称する積極的な接客方式を導入し、これが東京にも逆輸入されて「カフェーの大阪化」と呼ばれた。女給は客の卓に同席し、煙草に火を点け、酌をし、しばしば店外でのデート・性的関係に応じた。
この業態は、銀座・新宿・道頓堀のカフェーに広がり、1930 年(昭和 5 年)頃には全国に約 4 万軒のカフェーが存在したとされる。これは現代のキャバクラの直接の前身であり、客と女性従業員の擬似恋愛的相互作用を商品化する業態の起源として、性風俗史上重要な位置を占める。
女給の社会的位置
女給は、芸妓・娼妓とは法的・身分的に区別される「給仕業者」として位置づけられたが、実態としては性的サービスを伴う場合も多く、警察当局はこれを「化粧した売淫」として取締の対象とした。一方、女給自身は遊女・花魁とは異なり、契約による拘束ではなく自由意思での就労であったとされる点で、近代的職業女性の一形態でもあった。
女給を主題とする小説として、広津和郎『女給』(1930-1931)、菊池寛『真珠夫人』(1920、女給そのものではないが大正期女性像の代表)などが流通し、大衆文学の重要なジャンルを成した。
自由恋愛論
与謝野晶子と『みだれ髪』
歌人・与謝野晶子(1878-1942)は、1901 年(明治 34 年)に歌集『みだれ髪』を刊行し、女性の身体的・性的主体性を直截に詠う作風で衝撃を与えた。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」など、女性の側からの性愛の主張は、明治の家父長制下では極めて異例であった。
晶子は大正期に入っても旺盛な評論活動を続け、母性保護論争(1918-1919、平塚らいてうとの論争)で女性の経済的自立を主張するなど、性と生活をめぐる思想的指導者として影響を与えた。
厨川白村『近代の恋愛観』
英文学者・厨川白村(1880-1923)は、1922 年(大正 11 年)に『近代の恋愛観』を朝日新聞に連載し(同年単行本化)、ベストセラーとなった。白村はエレン・ケイ(スウェーデンの思想家)の恋愛論を紹介し、「Love is best」「恋愛とは霊肉一致である」とする近代的恋愛観を日本に普及させた。
この書物の影響は絶大で、「自由恋愛」の語は大正期の青年男女の合言葉となり、見合い結婚・親決め結婚への懐疑を広めた。一方、現実の婚姻制度・家制度はほぼ無傷で残存しており、自由恋愛の理念と現実の家族制度のあいだの乖離が、大正期の恋愛をめぐる悲劇・心中事件の背景を成した。
大杉栄と「自由恋愛」の実践
社会主義者・無政府主義者の大杉栄(1885-1923)は、自由恋愛論を実践に移した代表的人物である。妻の堀保子のほか、神近市子・伊藤野枝と同時に関係を持ち、1916 年(大正 5 年)の「日蔭茶屋事件」(神近市子が大杉を刺傷)で社会的注目を集めた。大杉は「同居しないこと」「経済的に独立であること」「互いに自由を尊重すること」を恋愛の三条件として掲げ、所有的・排他的婚姻制度への反逆として自由恋愛を位置づけた。
大杉は 1923 年の関東大震災直後、憲兵隊に拘束され、伊藤野枝・甥とともに殺害された(甘粕事件)。彼の死は、大正期の自由恋愛運動の象徴的終焉とされる。
産児調節運動とサンガー来日
マーガレット・サンガーの来日
アメリカの産児調節運動家マーガレット・サンガー(Margaret Sanger, 1879-1966)は、1922 年(大正 11 年)3 月に来日した。彼女の来日は、当初は内務省の入国拒否方針により困難を極めたが、結局上陸が許され、東京・横浜・神戸などで講演を行った。サンガーの著書『家族計画(Family Limitation)』は同年に改造社から日本語訳が刊行され、避妊・産児調節の知識を一般に広めた。
サンガーの来日は、性の社会的議論を一気に活性化させた。山本宣治(京都帝国大学講師、産児調節運動家)、安部磯雄(社会主義者)、加藤シヅエ(後の参議院議員、サンガーの直接の協力者)らが産児調節運動を組織化し、避妊器具の輸入・製造、講演会の開催、雑誌『産児調節評論』の刊行などを展開した。
山本宣治と産児調節
山本宣治(1889-1929)は、産児調節運動の中心人物の一人であり、京都・東京で多数の講演会を開催し、避妊知識を労働者層に普及した。彼の活動は、産児調節を女性の権利・労働者の生活改善・人口問題の解決として複合的に位置づけ、医学・社会運動・政治の交差点に位置した。山本は 1929 年に右翼に暗殺され、産児調節運動は治安維持法下で弾圧されていった。
性教育の萌芽
大正期は性教育の概念が初めて公的に議論された時期でもある。1921 年(大正 10 年)、文部省嘱託の沢田謙が『性教育』を刊行し、子供への性的知識の系統的提供を提唱した。同時期に、医師の高田義一郎、社会学者の本間久雄らが性教育論を展開し、家庭・学校での性的啓発の必要を説いた。
ただし大正期の性教育論は、知識人層の議論にとどまり、学校教育・家庭教育に実装されることはほとんどなかった。実装は戦後の 1947 年(昭和 22 年)の「純潔教育」を待つこととなる。
エロ・グロ・ナンセンス前史
大正期から昭和初期への連続
「エロ・グロ・ナンセンス」(略称エロ・グロ)は、1929 年(昭和 4 年)頃から流行した大衆文化の総称で、性的(エロ)・猟奇的(グロ)・無意味的(ナンセンス)な要素を娯楽化した文化潮流を指す。代表的媒体として『犯罪科学』『猟奇』『カメラ』などの雑誌、江戸川乱歩・夢野久作の探偵小説、エロ写真絵葉書などが挙げられる。
エロ・グロ・ナンセンスは昭和初期の現象であるが、その素地は大正期に準備された。大正末期(1923-1926)の都市文化、カフェー、モガ・モボ、自由恋愛論、性科学の輸入が相互に作用し、性の表象が大衆文化に流入する基盤を成した。
春画の私的流通
春画は明治期に刑法 175 条(1907 年制定)により公的流通が禁止されたが、大正期には骨董・古書市場を通じて私的に流通し続けた。大正期の知識人・文人層には春画の蒐集家が多く、永井荷風・斎藤茂吉らの蔵書には春画が含まれていたとされる。これは公的な禁圧と私的な持続の二重構造を示す。
エロ写真と絵葉書
明治末期から大正期にかけて、写真技術の普及とともに、女性のヌード・半裸写真が絵葉書・写真集の形で流通した。多くは外国輸入品(主にフランス・ドイツからの密輸)であったが、国内製造の品も増加した。これらは公然と販売されるものではなく、骨董店・古書店・特定の写真館での「奥売り」によって流通した。
文学・美術における性
谷崎潤一郎と耽美主義
谷崎潤一郎(1886-1965)は、大正期から昭和初期にかけて、女性の身体・倒錯的恋愛・マゾヒズムを主題とする耽美的小説を多数発表した。『刺青』(1910)、『痴人の愛』(1924-1925)、『卍』(1928-1930)などは、大正ロマンの性的想像力を代表する文学的達成として位置づけられる。『痴人の愛』のヒロイン・ナオミは、典型的なモガ像と耽美的女性像の融合として、当時大きな反響を呼んだ。
竹久夢二と挿絵文化
竹久夢二(1884-1934)は、大正期を通じて美人画・挿絵で絶大な人気を博した画家・詩人である。儚げで憂いを帯びた「夢二式美人」は、大正ロマンの視覚的象徴となり、書籍装丁・絵葉書・千代紙などのデザインを通じて大衆に浸透した。夢二の女性像は、性的露骨さを欠きながらも、ある種の情緒的官能性を帯びており、近代日本の女性表象史において重要な位置を占める。
岸田劉生と裸婦
洋画家・岸田劉生(1891-1929)は、大正期に裸婦画・人物画を多数制作し、近代日本における裸体表現の先駆者の一人となった。明治期には裸体画が公的展示で問題視されることが多かったが(黒田清輝『裸体婦人像』論争、1895 年)、大正期にはより自由な裸体表現が許容される素地が形成された。
文化史的意義
大正ロマンは、近代日本の性文化史において、明治の国家主義的禁欲と昭和戦時の軍国主義的統制とのあいだの「踊り場」として位置づけられる。15 年間という相対的に短い期間ながら、自由恋愛論の社会的浸透、産児調節運動の組織化、性教育論の登場、女性の身体表象の変容、カフェー業態という擬似恋愛サービスの確立など、後の日本社会に持続的影響を与える複数の事象が同時並行的に展開した。
昭和に入ると、満州事変(1931)、二・二六事件(1936)、日中戦争(1937)、太平洋戦争(1941)と続く戦時体制の中で、自由恋愛・産児調節・モガ的女性像はいずれも統制・抑圧の対象となった。「産めよ殖やせよ」の人口増殖政策のもと、産児調節は国策に反するとされ、女性の洋装は奢侈品として規制された。大正ロマンの諸要素は地下化・私化を余儀なくされ、戦後のカストリ文化・1960 年代の性革命に至るまで、本格的な再展開を待つこととなる。
近年の大正史研究(成田龍一、佐伯順子、馬場伸彦らによる)は、大正期を単なる「明治と昭和のあいだの過渡期」としてではなく、独自の文化的論理を持つ時代として再評価している。性文化の観点から見ると、大正ロマンは近代日本における「恋愛」「性」「身体」の問い直しが初めて社会的規模で行われた時期として、極めて重要な位置を占める。
関連項目
参考文献
- 『エログロ・ナンセンスの時代』 青弓社 (2010)
- 『風景の生産・風景の解放 — メディアのアルケオロジー』 講談社 (1994)
- 『「女子」の時代!』 青弓社 (2012)
- 『モダンガール論』 マガジンハウス (2000)
- 『みだれ髪』 東京新詩社・伊藤文友館 (1901)
- 『産児制限』 改造社 (1922)
- 『大正=歴史の踊り場とは何か』 ぷねうま舎 (2018)
- 『近代日本の恋愛観』 講談社現代新書 (2008)
別名
- 大正期文化
- Taisho Roman
- 大正モダン